2008年3月5日水曜日

再び 九州へ!

 2月22日、4カ月ぶりで福岡空港に立つ。今回の旅の目的は、大宰府天満宮境内にある延寿王院、玄海灘姫島、福岡市博物館にある国宝の金印。
 まず、延寿王院。文久3年(1863)8月18日の堺町御門の政変(長州対会津・薩摩の葛藤で長州の堺町御門警衛が御免になった)以降、都を追われた七卿のうち三条実美、三条西季知、東久世道禧、四条隆謌、壬生基修の五卿が、慶応元年(1865)1月4日、功山寺を発し外浜(下関市中之町)より渡海し筑前へ。、その後、ここ大宰府に滞留し、西郷隆盛や高杉晋作、坂本竜馬などと談議を重ねた場所だ。
 ここに現存する高杉晋作の書簡(妻雅からの手紙の裏に返書を書いた)をこの目で見たかったからだ。過日、私は九州小倉で売りに出されていた高杉晋作が書いたとされる掛け軸を購入したばかりで、彼の筆跡を直に確認しその真贋を確かめたかった。当初、どうせ贋作と思いつつあまり期待をしていなかったが、その後、彼が書いたとされる各種書簡の筆跡と照合した結果、私なりに購入の掛け軸はまさしく彼が書いたものと断定している。現在「何でも鑑定団」に真贋鑑定を依頼中。
 ところがどうしたものか、私の失念(事前に調べておいたメモを自宅に忘れた)で延寿王院でなく近隣の光明寺に行ってしまった。その後、時間が無く後髪を引かれる思いでバスに乗り湯布岳の下を通って別府へ。別府の街が見えた頃、いく筋もの噴煙が確認出来た。さすが湯の街だと感心しきり。私は数年前、四国の八幡浜からこの別府にフェリーで来たことがある。その時はここから」列車で鹿児島に直行している。
 ところで、金曜日にもかかわらず別府の街はひっそりとしていて、夜の繁華街も人影もまばらだった。宿泊した清風荘の私の部屋からは別府湾が眼前に一望出来て、朝、部屋の窓を開けると海鳥が餌をもらえると思ってか差し出す手元まで飛んでくる。観光用としては面白い経験だったが、自然界と人間が、こんな関係で良いものか考えさせられた。
 さて、午後再度博多に戻り、JR筑肥線で筑前深江付近にさしかかる頃、玄界灘洋上に姫島が見えて来た。この島は、勤皇歌人の野村望東尼が元治元年(1864)11月、俗論党に追われて九州にやって来た高杉晋作を、十日間ほど匿いその罪で遠島された場所だ。しかしその後、遠島を知った晋作は手配のものを使って馬関(下関)に奪還している。この行動が「義」に厚い彼の一面を知る上で大変興味深い。わずか十日間の滞在とはいえよほど恩義に感じたのだろう。縁とは不思議なもので、その後、望東尼は晋作の最後の瞬間を看取っている。


 次に、前回(11月4日)見られなかった国宝の金印。この金印は福岡市博物館に現存する。天明4年(1784)福岡から程近い志賀島で発見された。小さいが室内の照明で、「漢委奴国王」と刻まれているのが確認出来る。わずか二センチ四方で取っ手にはとぐろを巻いた蛇の彫刻が施されている。素晴らしいのひと言でここに来た甲斐があった。
 今回の旅は、このように駆け足だったものの実に満足したものとなった。


  眼前 遥か洋上に 孤島姫島を見る
  悲しみの島 姫島
  慶応元年十一月 六十歳の老いた尼が
  寒風吹きすさぶ牢獄で
  御国を思いて涙した島 姫島
  尼の名は望東禅尼
  そんな尼を 天は見捨てることはなかった
  忠・孝・義厚いひとりの若者が
  彼女を奪還する
  時に慶応二年九月十六日
  その若者の名は東行高杉晋作
  それは運命か
  尼はこの若者の早すぎる死を看取る

     面白き こともなき世を おもしろく
          すみなすものは 心なりけり