2008年5月20日火曜日

寅さん映画からふるさと、そして人間の幸せを考える

 久々で柴又に行って来た。JR金町駅の隋道を抜けると目の前に京成金町駅の大きな駅名表示板が目に飛び込む。駅舎にはコーヒーショップなどがあり小奇麗だ。ここから片道百三十円、一つ目の駅が寅次郎のふるさと柴又の玄関口京成柴又駅だ。帝釈天の参道には多くの古き良き時代を髣髴とさせるみやげ物屋が 軒を連ねている。
 山田洋次監督がこの映画を手がけたのが昭和44年(1969)のこと。それから回を重ねて全四十八作、平成7年(1995)まで続いた。この「男はつらいよ」は時代とともに生き続けた、ある意味では時代の寵児的人気映画だ。寅さん、本名渥美清は翌平成8年(1996)8月4日に亡くなった。私はこの映画に日本の美しい自然と、人間の幸せとは何か?という人間が希求する大きなテーマを見たような気がしているので、ここで私が特に印象に残ったふたつのシナリオをご紹介したい。
第六作「純情篇」
さくら「お兄ちゃん、また、どこかに行っちゃうのね」
寅次郎「さくら、覚えているかい。俺が十六の歳に親父と喧嘩して家出したろ」
さくら「ああ微かににね。何んだかお兄ちゃんと別れるのが悲しくてどこまでも追っかけたんじゃない私」
寅次郎「そうよ、追っ払っても追っ払っても、お前、泣きべそかいてついて来るだろ。俺困っちゃった。でも、そこの改札口まで来たら諦めてよ、これ餞別よって、俺に渡して帰って行ったろ。電車に乗ってそれ開けて見たら真っ赤なおはじきが入ってやんの。俺さ笑っちゃったよ」
さくら「ね、お兄ちゃん、もう正月も近いんだから、せめてお正月までいたっていいじゃない」
寅次郎「そうもいかないよ。俺たちの稼業はよ。世間の人が炬燵にあたって、テレビを見ている時に、冷てえ風に吹かれて、鼻水たらして声をからして物を売らなくちゃならねえんだ。そこが渡世人の辛れえところよ。皆によろしくな。博と仲良くやるんだぞ」
=電車が到着し、寅次郎乗り込む=
寅次郎「じゃあな、さくら」(さくらが身につけていた真っ赤なマフラーを、寅次郎の首に巻きつけてやる)
さくら「あのね、お兄ちゃん、辛いことがあったらいつでも帰っておいでね」
寅次郎「そのことだけどよ、そんな考えだから俺、いつまでも一人前・・・」「故郷ってやつはよ、故郷ってやつはよ・・・」
さくら「ん、え、何、何んて言ったの?」
=電車の扉が閉まり寅次郎が電車の扉越しに何かを言ってるがさくらには聞こえないので聞き返す=
 ここで寅次郎(山田洋次監督)は何を言いたかったのだろう。寅次郎の気持ちを代弁するなら「故郷ってやつはよ、いつも俺を優しく迎えてくれるだろ、おいちゃんもおばちゃんも、そしてさくらも、だからついつい甘えて長逗留しちゃうんだよな。これじゃいけねえ、これじゃいけねえって思ってるんだけだ、どうしても大人になりきれねえのよ。こんなお兄ちゃんだけど、ごめんなさくら」とでも言いたかったのではなかろうか。
第八作「寅次郎恋歌」
 秋の夜長、備中高梁で連れ合いを亡くした博の父親との会話。
博の父親「寅次郎君は今、女房子供がいないから身軽でいいって言ったね。そう、あれはもう十年も昔のことだがね、信州安曇野という所に旅したことがある。バスに乗り遅れて、田舎道をひとりで歩いていたら、日が暮れて暗い夜道を心細く歩いていると、ポツンと一軒の農家があった。
りんどうの花が一杯に咲いていた。開けっ放しの縁側から、明かりのついた茶の間で、家族が食事をしているのが見える。まだ食事に来ない子供がいたのだろう。母親が大きな声でその子の名前を呼ぶのが聞こえる。今でもその情景をありありと思い起こすことが出来る。庭一面に咲いたりんどうの花、明々と明かりのついた茶の間、賑やかに食事をする家族たち。私はその時、それが本当の人間の生活というものじゃないかと、ふとそう思ったら急に涙が出てきた。
 人間は絶対ひとりでは生きていけない。さからっちゃいかん。人間は人間の運命にさからっちゃいかん。そして早く気がつかないと不幸な一生をおくることになる。わかるね、寅次郎君、わかるね」
寅次郎「よくわかります。よくわかります」
  これは博の父親と寅次郎の会話ではあったが、博の父親はごく最近、連れ合いを亡くしてしんみりと自分の姿とだぶらせていたのだ。子供たちが小さい頃、自分は書斎に閉じこもったままで、親身になって子供たちと触れ合うことがなかった。そのことへの反省の意味も含めて寅次郎に話したかったのではなかろうか。
  平凡な人間の営みの中にこそ本当の幸せがある。そして人間には人間の定められた生活がある。それに気付かなかった自分に悔いているのであろう。以上、考えさせられる会話であった。

2008年5月8日木曜日

初夏の一日、西山荘へ

 ゴールデンウイーク各交通機関、各幹線道路は例年どおり混雑を極める。五月五日「こどもの日」は常陸太田(JR水郡線)から程近い西山荘(水戸第二代藩主徳川光圀=黄門様が元禄4年~13年[1691~1700]に没するまで晩年を過ごした隠居所)に行って来た。
 行楽日にも関わらず車社会を実感せざるを得ないほど、私が乗車したJRの車両にはほんの数人しか乗っておらず、駅前の観光案内所の担当者の話でも来客はほとんどないとのこと。ただ、西山荘は駐車場に数十台が駐車していて、広い園内は年配の女性グループや、家族連れで混雑していた。入園料650円。目的の黄門様の住居は奥まった所にありひっそりとした佇まいで、茅葺屋根には珍しいことに、菖蒲の花が数本紫と白の花を付けていた。どこからか種が飛んで来たのだろうか。
 私たちの知る黄門様の日本漫遊は後の創作話であろう。ただ、当時江戸城への登城や駿府、日光参詣などの際の話に尾鰭がついたものなのか、また大日本史編纂の時、ある程度そうした実測が伴ったものか定かではない。
 この常陸太田周辺ではすでに田植えが始まっていて、水を張った田では蛙の鳴き声が響いていた。周囲緑一色だ。大地の躍動を感じさせるのもこの頃で、私の一番好きな季節だ。

2008年5月6日火曜日

春うらら!! 会津西街道

 4月29日、福島西インターチェンジから磐梯吾妻スカイライン、レイクラインを経て五色沼へ。
途中、吾妻小富士に登る。山頂は強風で恐る恐るお釜を覗く。また、湖見峠への車道両側は雪の壁(写真参照)が蜿蜒と続く。時折、春に目覚めたウグイスの声。
 五色沼湖沼群の森林では、ようやく訪れた春の大気に木々の躍動が感じ取れた。毘沙門沼の岸の草むらから這い出た一匹の蛇が、気持ち良さそうに湖面を浮遊していた。ゴールデンウイーク前半のこの日、多くの家族連れで賑わう。中には中国、韓国からの団体客も目に付いた。

 会津若松に一泊した翌30日、鶴ケ城園内を散策した。園内の茶室「麟閣」は、千利休の子少庵が利休亡き後、会津領主蒲生氏郷に保護されていた時に本丸内に建てられた茶室で心癒す佇まいだ。
また、そのすぐ裏手の火の見櫓付近には、作曲家土井晩翠がこの城壁を煌々と照らす月に感動して創った名曲「荒城の月」の碑がある。

 時は幕末、この鶴ケ城が象徴的な会津藩は、幕軍の中心的役割を担い多くの壮士を輩出した。隊列には四神、すなわち青龍、朱雀、白虎、玄武の名が付けられている。中でも年輪もいかない白虎隊の名は、その壮烈な最期の状況から聞く者の涙を誘う。
戊辰戦争は慶応4年(明治元年)王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦で、会津西街道は、その時、最後の将軍徳川慶喜を擁した彰義隊が、将軍が謹慎していた上野寛永寺のある上野の山から敗走し続けやっと辿り着いた悲しみの道だ。その後、庄内、長岡、新発田藩等を次々に巻き込んで最終的には北海道函館の五稜郭にて終結する。官軍の西郷隆盛や大村益次郎などが脚光を浴びる中、敗軍の将土方歳三や榎本武明の活躍は目立つことはない。

 さて、この会津西街道を車で南下した私の目に、芽吹いたばかりの木々のうっすらとした緑が心地良かった。山腹は野生のやまぶきの黄色い花が見事だ。途中、大内宿と塔のへつりに立ち寄った。大内宿は約60軒の茅葺屋根の家屋が整然と旧宿場町の風情を今に残す。今では観光客相手の土産物店となっている。高台から俯瞰する佇まいは壮観だ。また。塔のへつりは奇岩が迫る。大自然のエネルギーに脱帽すると同時に会津の早春を満喫した旅となった。