4月29日、福島西インターチェンジから磐梯吾妻スカイライン、レイクラインを経て五色沼へ。
途中、吾妻小富士に登る。山頂は強風で恐る恐るお釜を覗く。また、湖見峠への車道両側は雪の壁(写真参照)が蜿蜒と続く。時折、春に目覚めたウグイスの声。
五色沼湖沼群の森林では、ようやく訪れた春の大気に木々の躍動が感じ取れた。毘沙門沼の岸の草むらから這い出た一匹の蛇が、気持ち良さそうに湖面を浮遊していた。ゴールデンウイーク前半のこの日、多くの家族連れで賑わう。中には中国、韓国からの団体客も目に付いた。
会津若松に一泊した翌30日、鶴ケ城園内を散策した。園内の茶室「麟閣」は、千利休の子少庵が利休亡き後、会津領主蒲生氏郷に保護されていた時に本丸内に建てられた茶室で心癒す佇まいだ。
また、そのすぐ裏手の火の見櫓付近には、作曲家土井晩翠がこの城壁を煌々と照らす月に感動して創った名曲「荒城の月」の碑がある。
時は幕末、この鶴ケ城が象徴的な会津藩は、幕軍の中心的役割を担い多くの壮士を輩出した。隊列には四神、すなわち青龍、朱雀、白虎、玄武の名が付けられている。中でも年輪もいかない白虎隊の名は、その壮烈な最期の状況から聞く者の涙を誘う。
戊辰戦争は慶応4年(明治元年)王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦で、会津西街道は、その時、最後の将軍徳川慶喜を擁した彰義隊が、将軍が謹慎していた上野寛永寺のある上野の山から敗走し続けやっと辿り着いた悲しみの道だ。その後、庄内、長岡、新発田藩等を次々に巻き込んで最終的には北海道函館の五稜郭にて終結する。官軍の西郷隆盛や大村益次郎などが脚光を浴びる中、敗軍の将土方歳三や榎本武明の活躍は目立つことはない。
さて、この会津西街道を車で南下した私の目に、芽吹いたばかりの木々のうっすらとした緑が心地良かった。山腹は野生のやまぶきの黄色い花が見事だ。途中、大内宿と塔のへつりに立ち寄った。大内宿は約60軒の茅葺屋根の家屋が整然と旧宿場町の風情を今に残す。今では観光客相手の土産物店となっている。高台から俯瞰する佇まいは壮観だ。また。塔のへつりは奇岩が迫る。大自然のエネルギーに脱帽すると同時に会津の早春を満喫した旅となった。