人生はよく「旅」に例えられる。
長い人生においての苦楽や多くの出会いが、ちょうど旅に出た時に遭遇する諸々の事象に置き換えられるからであろう。わが身を「旅」という非日常の中に置くことで、己をじっくりと見つめ直す良い機会にもなり得る。そして旅には楽しみを期待しての旅や心傷つき鬱積しているものを晴らしたいという旅など人様々だ。
時たま私もふらっと旅に出るが、時には若山牧水の「幾山河越え去りゆかば寂しさの 果てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」や石川啄木の「ふるさとの 訛り懐かし停車場の 人ごみ中にそを聞きにゆく」といった感傷的な旅もする。
私は昭和63年3月、23年間勤めた国鉄を退社した。国鉄が民営分割され新会社に移行する直前のことで、それまでの自分に対する褒美の意味合いもあり山陰の旅を計画した。
津和野駅のホーム上でのこと、留置線に停留していたキハ(気動車)車両の下方の目立たない部分に「日本国有鉄道」の刻印があり、それを見ていたら急に涙がこみ上げてきたのを覚えている。不思議なものだ。見慣れてきた会社名、それが数日後には新会社になりそこにはもう自分はいないと思ったら言いようのない感慨が込み上げてきた。その後私は小京都の萩へ向った。今思えばそれが萩への初めての旅であった。その時は単に見知らぬ町への観光目的の旅であったのだが数年後、とあることがきっかけで長州萩出身の高杉晋作という快男児を知ることになり私の人生は大きく変わった。
さて、昨日(2月21日)、栃木県下都賀郡壬生町にて、その萩から萩博物館の学芸員一坂太郎氏を招き講演会があった。演題「壬生剣客伝 幕末の風雲児高杉晋作が挑む」一坂氏は高杉晋作の研究者であると同時に自他共に認める晋作の大ファンでもある。ご子息に「晋作」と付けるほどだ。
ところで万延元年(1860)8月、高杉晋作が江戸から常州(茨城)、野州(栃木)、上州(群馬)、信州、越前へと旅した時に記録した「試撃行日譜」。私も実際に日譜に沿って旅してみて気付いた点や疑問点また新たなる発見などを交通新聞と織姫新聞に掲載した。また、昨年たまたま入手した晋作直筆の書画「帰去来の辞」をもって12チャンネル開運!なんでも鑑定団に出演した。その後北海道や大阪の友人から驚きの電話をもらって今更ながらテレビの威力を痛感した。お宝は残念ながら贋作と診断。それでも2日間の取材(一日目は世田谷の松陰神社、二日目はスタジオ撮影)で竹原洋介が旅人として全国デビューしたことは意義深い。
それはさて置き、高杉晋作もある意味では旅人であった。長州は防府、三田尻、長府、馬関(下関)、それに前述の関東遊歴、また、江戸、京都、福岡、長崎更には中国上海など。彼の文久年間(1861~1863)から元治、慶応初期の目覚しい活躍の舞台は主として長州だった。それも馬関(下関)である。しかしそんな晋作も病魔(肺結核)には勝てず慶応3年4月13日(命日は14日)帰らぬ人となった。近代国家日本を見ることなく時代を駆け抜けた情熱の若者。享年27歳。「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し 衆目駭然敢えて正視する者なし これ我が東行高杉君に非ずや・・・」と初代総理大臣で高杉晋作の弟分伊藤博文が顕章碑文で記したように一見破天荒、しかし時代を的確に読んだ男であった。そんな男に惚れ込んだ私である。