2010年7月19日月曜日

父の死

 7月11日父が死んだ。1月の母の死に次ぎ今年2010年は私にとって忘れられない辛い年になった。高齢だからと覚悟はしていたものの亡くなると寂しい。母は86歳、父は91歳で私にとって忘れられない数々の親子の思い出を残してそれぞれの人生を全うした。
 父が70歳後半、あるいは80歳になってからであろうか、私に向かいポツリ、「人間が死ぬということはどういうことなのかな?きっと大木の幹が朽ちてある日ドスーンと倒れるようなことなんだろうな」 恐らく父はその頃から己の「死」を意識し始めていたのだろう。
 私もこの私のブログノ中でも再三「死」というものにスポットを当てて書いた。日々忙しくしているとそうしたことには無関係に時間が過ぎる。しかし私たちは常に「死」と向き合いながら己の人生を精一杯生きることが肝要ではなかろうか。最後に、私は父の死にあたり追悼の句を棺の中に納めた。これは死の数日前、病院に見舞った時の心境を詠んだものだ。
   
   老いた手を 触れれば涙込み上げし 
              今日の訪れ 如何とも難し

2010年6月15日火曜日

「人生」を考える

 「人生」とは人が生まれ、人が生きると書く。私はこのことを常に考え悩むことしばしばだ。
 今日6月1日、私は吉田松陰生誕180年「獄に咲く花」を見て来た。松陰が生きた150年前、遠い昔と言えばそう思えるし、まだたかだか150年前の実際の話だとも思えなくもない。しかし良く考えてみよう。この150年間で私たちの周辺は大きく変わった。
ひとつ取り上げると、通信・伝達手段。現代は電話、メール、ファックスと当時と比べ飛躍的に進歩し便利になった。また、逆に全く変わらぬものもある。それは”人の心”だ。どんなに社会が進歩しようが、この映画にあるように己の生き様、真心というものは変化のしようがない。「心」というものは人間に備わった最高の宝だと思っている。
 松陰が野山獄に2度投獄された計2年間、(1回目は安政元年、2回目は安政5年)囚人たちに大きな変化が見られた。それまで空虚な牢獄が。彼の純粋さと牢にいてまでのひたむきな向学心、そして彼の情熱が生きる希望を失った囚人たちの心に徐々に入り込んだのだ。生きるとは?の真の意味を囚人たちに考えさせるようになった。最初、囚人たちは「そんなことしてどうなる。俺たちはどうせ外界に出ることなく死ぬだけだ」と自棄気味だった。そんな中で「私が皆さんをこの牢獄から出られるように努力します。」とその後、彼の言葉どおりひとり、そしてまたひとりと獄を出ていった。明治の初めまでには全員が出獄した。
 今、生きたくても重い病気で何年も生きられない多くの人がいる。また、健康な人で悩み事を抱えて自殺願望の人もいる。人、様々だが私は与えられた人生を全うして欲しいと思うひとりだ。だって松陰安政の大獄連座で処刑、享年30歳。また、愛弟子高杉晋作27歳で病没と若くして無念のうちに他界した人達がいるのだから。

2010年5月18日火曜日

温泉三昧(尻焼温泉・花敷温泉・湯ノ平温泉・沢渡温泉)

 拙著『日本讃歌』の「大いなる大地の恵み温泉天国」の中でもご紹介したが、私たち日本人は本当に恵まれている。全国津々浦々温泉が湧き出ていて日々、その恩恵に浴しているからだ。私も栃木、福島、群馬周辺の温泉にはよく行く。中でも加仁湯温泉、北温泉、木賊温泉などが好きだ。
 一人旅が多い私が、今回は友人ふたりを加えて久々の温泉三昧。場所は群馬県の尻焼温泉、花敷温泉、湯ノ平温泉、沢渡温泉に行って来た。
「緑風」、辞書には初夏に青葉を吹き渡る風とある。まさに今、大地は緑風の中にある。全山、新緑が眩いばかり、その中に所によって山桜も散見された。私自身この季節が大好きだ。
 この地は四十年ほど前、訪ねてはいるもののその時は温泉には立ち寄らず、若山牧水の「枯野の旅」の碑文がある暮坂峠やその周辺の牧水が残した作品を散策して楽しんだのを記憶している。
   『枯野の旅』
 乾きたる
 落ち葉のなかに栗の実を
 湿りたる
 朽葉が下に橡の実を
 とりどりに
 拾ふともなく拾ひもちて
 今日は山路を越えて来ぬ

 長かりし けふの山路
 楽しかりし けふの山路
 残りたる紅葉は照りて
 餌に餓うる鷹もぞ啼きし
 上野の草津の湯より沢渡の湯に越ゆる路
 名も寂し暮坂峠

 野趣溢れる河原一面が温泉の尻焼温泉、浴場が古風な檜張りの浴槽の沢渡温泉「まるほん旅館」など本当に心地良い一日であった。次回は再び北海道函館へ。

2010年5月5日水曜日

マッサージで極楽

 ゴールデンウイークも残りわずか。すでに上りの各交通機関も混雑を極める。
そんな中、私は近くの大衆浴場「ゆけむり横丁」でマッサージにかかった。若い頃からマッサージで体の疲れを癒したが、自分の体のツボ(気持ちの良い部位)を揉み解してくれる整体士はなかなか見つからない。しかし今回やっとめぐり合えたような気がしている。「Mさん」これからもよろしく!

2010年4月26日月曜日

信州安曇野はまだ早春

 4月24日、早春賦の歌碑がある安曇野の信濃川の堤では、一陣の風に桜の花びらが宙に舞っていた。眼前には別名信濃富士の有明山や常念岳など北アルプスの峰々。また、遠くに多くの雪をいただいた白馬連峰が連なる。
 春本番の日本列島だが、ここ安曇野では風が冷たく、この早春賦の歌詞の「春は名のみの風の寒さや・・・」そのものの季節に感じられた。

     早春の 信濃の河原に 我ひとり
            母を偲びて  雪山仰ぐ

 先駆けて散策した大王わさび畑は、ほとんどが中国、韓国の人たちでその中に若干の欧米人が混じっていた。日本人の姿はまばらだった。過日行った北海道大沼公園周辺でもそうであったように近年、外国からの旅行客が目立つ。
そんなこともあってか「京都の賽銭箱、目立つ外国通貨」という記事を目にした。米国ドル、中国の人民元、韓国ウオン、欧州ユーロ、インドのルピー、インドネシアのルピア等の賽銭があり、ご利益があるのか外国人も日本の神様に様々なお願い事をしている姿を紹介していた。
 さて、松本は駅舎が新築完成していて旧駅舎の入口の柱に掛けられていた「松本駅」の表示板は、そのまま新駅舎に継承されていて嬉しかった。
街中も大きく変化していて街全体が実に綺麗になっていた。女鳥羽川にある「なわて通り」にあった映画館などは大きな立派なビルに変貌していた。中町通りなどはなまこ壁で統一された商店街となっていて循環バスも運行されていた。本当に魅力ある街づくりだ。我が出身地で小京都でもある足利市も、このような街づくりを参考に活気ある街にして欲しいものだ。
 夜の散策では大変味のある和風居酒屋を発見。旅はいつもこのような発見があるから楽しい。「蔵佳」という屋号で、土蔵を改築して太い木材が天井まで居ぬきになっていて落ち着いた雰囲気の店だ。また、1階奥の間の壁には懐かしい「信濃の国の歌」の掛け軸があった。忘れもしない40年ほど前、友人と木曽の妻籠宿、馬込宿を旅した時、中央線の上松駅ホームに流れていた曲だ。
この居酒屋の玄関脇には、北アルプスの雪解け水が何十年かけて地盤から湧き出た飲料水があった。
  さあ、次は5月16、17日、友人ふたりとの3人旅で温泉三昧!!
「尻焼」「湯の平」「沢渡」に。その日の宿は沢渡温泉のまるほん旅館。

2010年3月29日月曜日

庄内への旅

 3月21日朝9時前、私は酒田駅の待合室にいた。この日は生憎の強風のため羽越本線秋田行き、新潟行きいづれも不通になっていて陸羽西線だけがかろうじて運転されていた。私の乗る気動車は酒田駅ゼロ番線から、山々が黄砂でかすむ中を新庄に向け発車した。これほどの黄砂は経験したことがない。途中、最上川周辺は予想に反して雪が少なかった。普段ならこの辺は相当量の積雪地帯だ。
 昨夜、酒田の居酒屋で知り合った人はこの最上川の船頭さんだった。彼曰く、「最上川の舟下りは冬が一番」だそうだ。機会があったら私も是非、彼の案内で真冬の川下りを楽しみたいものだ。
 今回の旅の目的は、今回で五度目となる鳥海山麓の牛渡り川と滝之浦地区だ。牛渡り川は淡水にもかかわらず海に生息するカレイが泳ぐ川として以前NHKが放映していたが残念ながら私はまだ一度も出くわしたことがない。そして夏には清流の証でもある梅花藻が咲く。周囲は長閑な田園地帯になっている。また、滝之浦地区は海に面した細長い地域で、ここの住民は湧水の恩恵をうけている。飲料水は勿論のこと、野菜などを洗う炊事場がありそこは地区の主婦の懇親会場にもなっていて微笑ましい。
 そして東北の名山鳥海山は海に向かってどっしりと悠久の時を刻んでいる。中腹に「胴腹の滝」という突如土中から水を湧き出す所があり、以前行った時には多くの人がポリタンクを車から出してその水を汲んでいた。大自然の不思議をまざまざと見た思いだった。

2010年2月22日月曜日

長州は心のふるさと

 人生はよく「旅」に例えられる。
長い人生においての苦楽や多くの出会いが、ちょうど旅に出た時に遭遇する諸々の事象に置き換えられるからであろう。わが身を「旅」という非日常の中に置くことで、己をじっくりと見つめ直す良い機会にもなり得る。そして旅には楽しみを期待しての旅や心傷つき鬱積しているものを晴らしたいという旅など人様々だ。
 時たま私もふらっと旅に出るが、時には若山牧水の「幾山河越え去りゆかば寂しさの 果てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」や石川啄木の「ふるさとの 訛り懐かし停車場の 人ごみ中にそを聞きにゆく」といった感傷的な旅もする。
 私は昭和63年3月、23年間勤めた国鉄を退社した。国鉄が民営分割され新会社に移行する直前のことで、それまでの自分に対する褒美の意味合いもあり山陰の旅を計画した。
 津和野駅のホーム上でのこと、留置線に停留していたキハ(気動車)車両の下方の目立たない部分に「日本国有鉄道」の刻印があり、それを見ていたら急に涙がこみ上げてきたのを覚えている。不思議なものだ。見慣れてきた会社名、それが数日後には新会社になりそこにはもう自分はいないと思ったら言いようのない感慨が込み上げてきた。その後私は小京都の萩へ向った。今思えばそれが萩への初めての旅であった。その時は単に見知らぬ町への観光目的の旅であったのだが数年後、とあることがきっかけで長州萩出身の高杉晋作という快男児を知ることになり私の人生は大きく変わった。

 さて、昨日(2月21日)、栃木県下都賀郡壬生町にて、その萩から萩博物館の学芸員一坂太郎氏を招き講演会があった。演題「壬生剣客伝 幕末の風雲児高杉晋作が挑む」一坂氏は高杉晋作の研究者であると同時に自他共に認める晋作の大ファンでもある。ご子息に「晋作」と付けるほどだ。
 
 ところで万延元年(1860)8月、高杉晋作が江戸から常州(茨城)、野州(栃木)、上州(群馬)、信州、越前へと旅した時に記録した「試撃行日譜」。私も実際に日譜に沿って旅してみて気付いた点や疑問点また新たなる発見などを交通新聞と織姫新聞に掲載した。また、昨年たまたま入手した晋作直筆の書画「帰去来の辞」をもって12チャンネル開運!なんでも鑑定団に出演した。その後北海道や大阪の友人から驚きの電話をもらって今更ながらテレビの威力を痛感した。お宝は残念ながら贋作と診断。それでも2日間の取材(一日目は世田谷の松陰神社、二日目はスタジオ撮影)で竹原洋介が旅人として全国デビューしたことは意義深い。

 それはさて置き、高杉晋作もある意味では旅人であった。長州は防府、三田尻、長府、馬関(下関)、それに前述の関東遊歴、また、江戸、京都、福岡、長崎更には中国上海など。彼の文久年間(1861~1863)から元治、慶応初期の目覚しい活躍の舞台は主として長州だった。それも馬関(下関)である。しかしそんな晋作も病魔(肺結核)には勝てず慶応3年4月13日(命日は14日)帰らぬ人となった。近代国家日本を見ることなく時代を駆け抜けた情熱の若者。享年27歳。「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し 衆目駭然敢えて正視する者なし これ我が東行高杉君に非ずや・・・」と初代総理大臣で高杉晋作の弟分伊藤博文が顕章碑文で記したように一見破天荒、しかし時代を的確に読んだ男であった。そんな男に惚れ込んだ私である。