2008年5月6日火曜日

春うらら!! 会津西街道

 4月29日、福島西インターチェンジから磐梯吾妻スカイライン、レイクラインを経て五色沼へ。
途中、吾妻小富士に登る。山頂は強風で恐る恐るお釜を覗く。また、湖見峠への車道両側は雪の壁(写真参照)が蜿蜒と続く。時折、春に目覚めたウグイスの声。
 五色沼湖沼群の森林では、ようやく訪れた春の大気に木々の躍動が感じ取れた。毘沙門沼の岸の草むらから這い出た一匹の蛇が、気持ち良さそうに湖面を浮遊していた。ゴールデンウイーク前半のこの日、多くの家族連れで賑わう。中には中国、韓国からの団体客も目に付いた。

 会津若松に一泊した翌30日、鶴ケ城園内を散策した。園内の茶室「麟閣」は、千利休の子少庵が利休亡き後、会津領主蒲生氏郷に保護されていた時に本丸内に建てられた茶室で心癒す佇まいだ。
また、そのすぐ裏手の火の見櫓付近には、作曲家土井晩翠がこの城壁を煌々と照らす月に感動して創った名曲「荒城の月」の碑がある。

 時は幕末、この鶴ケ城が象徴的な会津藩は、幕軍の中心的役割を担い多くの壮士を輩出した。隊列には四神、すなわち青龍、朱雀、白虎、玄武の名が付けられている。中でも年輪もいかない白虎隊の名は、その壮烈な最期の状況から聞く者の涙を誘う。
戊辰戦争は慶応4年(明治元年)王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦で、会津西街道は、その時、最後の将軍徳川慶喜を擁した彰義隊が、将軍が謹慎していた上野寛永寺のある上野の山から敗走し続けやっと辿り着いた悲しみの道だ。その後、庄内、長岡、新発田藩等を次々に巻き込んで最終的には北海道函館の五稜郭にて終結する。官軍の西郷隆盛や大村益次郎などが脚光を浴びる中、敗軍の将土方歳三や榎本武明の活躍は目立つことはない。

 さて、この会津西街道を車で南下した私の目に、芽吹いたばかりの木々のうっすらとした緑が心地良かった。山腹は野生のやまぶきの黄色い花が見事だ。途中、大内宿と塔のへつりに立ち寄った。大内宿は約60軒の茅葺屋根の家屋が整然と旧宿場町の風情を今に残す。今では観光客相手の土産物店となっている。高台から俯瞰する佇まいは壮観だ。また。塔のへつりは奇岩が迫る。大自然のエネルギーに脱帽すると同時に会津の早春を満喫した旅となった。

2008年3月22日土曜日

時代を見つめて幾星霜

 3月13日、久々にホテルメッツ田端に。ホテルのエントランスを入ると右手にレストランがある。このレストランからは東北・上越に向かう各新幹線をはじめ、山の手、京浜東北線、さらには高崎、宇都宮線の列車が手にとるように見られることから、鉄道ファンや子どもたちに人気の的だ。実はこのレストランの入り口付近の壁に、拙著「日本讃歌」の冒頭の詩が額入りで飾られている。
  
 二本のレールが駅構内で分岐し その先また二本になってどこまでも伸びる
 北は北海道 北緯45度の稚内から 南は31度の薩摩半島枕崎まで
 このレールがある限り 日本列島最果てへの思いは熱い  
 昭和四十年代の上野駅
 正月や盆の帰省時に 北への列車が入線するまでの数時間
 ホームで車座になり酒盛りが始まる
 久々に家族やわが子の話に 花咲かせる出稼ぎ労働者たち
 その訛りの心地良い響きが 今ではとても懐かしい
 駅  そこは多くの人が行き交い 出会いと別れが交錯する人生の縮図
 列島行く先々でも 日々人々の営みがあり 悲喜こもごもの人生がある
 そしてまるで何事もなかったかのように 今日も列車が定刻で運行される
 季節でいえば 春  桜前線が北上し五月上旬 やっと北海道に到達する頃
 南の九州では早や眩い初夏を迎える  冬 北海道大雪山系に初雪が降る頃
 本州以西では 木々が近づく冬を予感しながら 最後の輝きを見せる
 いと麗しき日本 そんな日本に生まれた幸せを噛み締めながら
 今日もまた 時刻表を片手に旅に出る
 忘れかけていた何か大切なものを求めて

 この詩は、昭和四十年代に旧国鉄の非現業部門に勤務していた私が、盆と暮れの輸送に際し、上野駅への助勤で目にした光景を詠んだもの。また、日本の四季の移ろいをその象徴的な「桜前線」と「紅葉前線」を列車で追って旅することをイメージし表現している。
 ところで、2008年3月14日をもって、高度経済成長を支えてきたブルートレインのうち、九州へ向かう特急「はやぶさ」(熊本行)・「富士」(大分行)と大阪発札幌行き「トワイライト エクスプレス」を除き引退し六十年の歴史にピリオドを打った。今回引退した急行「銀河」(大阪行)を、私はかつて数々のブルートレインが発着した東京駅10番ホームで見送った。
 ここですでに平成17年2月末に引退した特急「さくら」を取材した時の記事があるので併せてご紹介して読者に「旅情」を味わっていただこう。

 『時代を見つめて幾星霜』
(東京駅10番ホームと有楽町ガード下 「サラリーマン倶楽部」)
 平成17年4月8日 付 織姫新聞「竹原洋介旅便り」より
 時はすでに平成17年。元年生まれの人が既に思春期を迎える。戦後間もなく生まれた私など団塊の世代にとって、周囲で目に付く殆どの事象が、どうしても過去との対比になってしまうことは否めない。
 さて、2月末日をもって長きにわたって親しまれてきた寝台特急「あさかぜ」(下関行)と「さくら」(長崎行)が、ともに五十年の歴史に幕を閉じた。
 当日の東京駅10番ホームには、最後の雄姿をひと目見ようと、カメラを抱えた鉄道ファンや、過去に乗車された方だろうか年配の方もいて、ともに別れを惜しんでいた。客車の塗色が「青」だったことからブルートレインの愛称で親しまれてきた。併せてここ10番ホームは、「富士」「はやぶさ」「出雲」など他のブルートレインの発着番線でもあることから、「ブルトレホーム」として人気を博した。
 駅、そこは多くの人が行き交い出会いと別れが交錯する人生の縮図。そうした光景を私は何度となくここ東京駅10番ホームで見てきた。そういう意味では、昭和を見つめてきた重みあるホームということが出来よう。私とこれらブルートレインの思いでも尽きない。中でも「あさかぜ」は、母の実家が瀬戸内の糸崎(当時機関区があった)こともあり学生の頃はよく使っていた。また、「さくら」も数回乗車した記憶がある。新しいところでは三年前、長崎本線有明湾を望む里信号場。私の乗ったJR九州ご自慢の「白いかもめ」長崎行が交換待ちしていると、夕闇迫る湾のカーブの彼方から、窓に赤々と灯をともした長大編成の列車が近づいて来た。それが「さくら」だった。東京駅には翌朝11時33分着。あの時の旅情溢れる光景も今ではとても懐かしい。
 現在、東京駅10番ホーム発着で、機関車に牽引された寝台特急は「富士」大分行、「はやぶさ」熊本行、「出雲」出雲市行の三本だけになってしまった。こうした時代の変化は新幹線網の充実や、空の便の手軽さから時代の趨勢としては理解出来るものの、旅に旅情を見出す私など旅人にしてみれば一抹の寂しさを覚える。
 旅情を歌にした春日八郎の「赤いランプの終列車」が一斉を風靡したのが昭和三十年代前半。その哀愁を帯びたメロディが世のおじさんたちにとって実に心地良い響きだった。
そうした夜行寝台列車が毎夜、滑るように東京駅10番ホームを発車する。そして構内の分岐器と車輪のきしむ音を残しながら徐々にスピードを上げていく。まさにそこが有楽町の高架上で、そのガード下には戦後からある居酒屋がしのぎを削っている。私は以前に職場が丸の内にあったことから、仕事帰りに仲間とよく飲みに行ったものだ。当時後輩に「先輩、今晩はどちら方面に飲みに行かれるんですか?」などと皮肉たっぷりに尋ねられて、「今晩は銀座の高級クラブ・ブルースカイだよ」「女の子が選り取りみどりだぞ」なんて冗談を言ったものだ。
確かにガード下とはいっても露天に等しく、そこを通行する女性も多数。表現は決して違ってはいない。以来、私は有楽町ガード下を「サラリーマン倶楽部」と名付け足繁く通った。ヤキトリを焼く煙が濛々と立ち込めるサラリーマンのオアシス。情報交換や悩み事相談、意志疎通の場でもあった。
 近隣のハイカラ(ハイセンスで小奇麗)な銀座とは打って変わりここガード下は、我々サラリーマンにとっては最高の癒し場所だった。東京の多くの飲んべえ横丁がそうであるように、戦後の復興から始まり常にその時代を見つめてきた。当初は浮浪者が住み着かないようにと行政がテコ入れした経緯もあったとか、現在の経営者は親子代々の店が多いようだ。昭和四十年代の高度経済成長期のあの鰻上りの賃金上昇も手伝って、いわゆる″企業戦士″の溜まり場として隆盛を極めてきた時代の寵児的存在だった。最近では外国向けのガイドブックに載っているのか、はたまた口コミからか外国人客も目に付く。またこの界隈は来店客にマスコミ各社のインタビューなども時々行われる。実際私もインタビューを受けた経験がある。それを偶然親戚筋が見ていて、元気な姿がそのまま実家の両親に伝えられた。
 こうした時代の浮沈や数々の人間模様を見続けてきたガード下「サラリーマン倶楽部」だが、最近は居酒屋の大型チェーン化などに押し流されて、苦しい経営を余儀なくされている。近年のサラリーマン事情は、仕事上がりに飲んで帰ることが少なくなり、また、以前のようにお金を落としてはくれないという。こうした居酒屋事情の変化も低迷に拍車をかけている。ともあれ、かつての隆盛を極めた飲んべえ横丁を知っている私たち団塊の世代にとっては、これまた寂しい限りである。当時、今の日本は我々が支えているんだと自負していた。だからこそ街角には仕事上がりにチョット一杯やって、明日への活力にするといっては意気高揚していた多くのサラリーマンの姿があった。あの活気ある日本は今やいずこ。頑張れサラリーマン諸子。

2008年3月5日水曜日

伊豆は冬と春が同居?

2月26日伊豆に。
 伊豆は小学校の頃から何度となく行っているが、今回は初めてとなる中伊豆の旅だった。伊豆は気候温暖で特に春の海など、それこそ「春の海 ひねもすのたり のたりかな」そのままだ。それまでの私は、友人に「伊豆に行くなら何といっても海が素晴らしい西伊豆だ」と勧めていたが、今回の旅で中伊豆もなかなかのもの、特に湯ヶ島の宿「木太刀荘」は世古渓谷を見事に借景にしていて旅人の心を癒してくれる。大浴場のほか、大きなたらい?のような浴槽の風呂場や洞窟風呂、家族風呂など湯好きな私も大満足。変わった所では自然を大切にしているという点、朝、食堂の外、ちょうど私が見える位置に野鳥が何度も飛んでくるので良く見たら巣箱が設置してあった。自然と共生しているということだろう。いつの日か、僭越ではあるが川端康成や井上靖のように小説を書く機会があったら是非この「木太刀荘」でペンを執りたい。

 さて、のっけから宿の宣伝マンになってしまったが、宿に入るまでの数時間は散策を試みた。バスで河津七滝のひとつ大滝(おおだる)を訪ねた。日当たり少ない周囲鬱蒼とした林の中にそれはある。この時期としては水量が豊富で実に絵になる。また、大滝に降りる途中に子宝の湯があった。昨今、少子高齢化だ。是非あやかってほしい。余談はさておき、入り口付近に河津桜が濃いピンクの花びらをつけていて一足先に春の到来を告げていた。
 その後、再度バスに乗り水生地下で下車し川端康成文学碑を経て天城随道(旧天城トンネル)まで、みぞれまじりになった山道を残雪を踏みしめながら登った。先の河津桜を見てからのこの雪道だ。伊豆はめまぐるしく冬と春が同居しているように思えた。

 翌日は素晴らしい晴天で、列車が修善寺を出るとすぐに雪をいただいた秀峰富士が現れた。周囲の山々には雪は見当たらなかったが、富士だけが麓近くまで雪に覆われていてさすが日本最高峰だと感心した。
 この日の次なる目的地は三島の柿田川。数年前にも訪ねたことがある。10年から20年を経て富士の雪解け水がここ柿田川付近で地表に湧き出る。地下からボコツ、ボコツと湧き出るのが肉眼でも確認出来た。ここの湧水は、1964年に日量140万トンあったものが、1993年には100万トンに減少している。主な原因として、富士山東山麓に進出した企業による地下水の汲み上げ、また、ゴルフ場、宅地開発などによる雨水の地下浸透量減少が考えられるという。このままでは湧水量が減るばかりでなく、狩野川を経由して駿河湾に 注ぎ魚介類を育ててきた「命の水」が、その役目を果たさなくなる日到来も現実味を帯びてくる。
 さて、ここ柿田川周辺には貴重な動植物が生息している。清涼な川の証でもある有名なミシマバイカモ(初夏に淡黄色の花をつける)をはじめ、アオハダトンボ、アユカケ(俗にカマキリと呼ばれるが川底をはうように動き、えらぶたの上部にあるトゲでアユなどを捕らえ食べるカジカの仲間)など。また、柿田川は数百メートル先で伊豆の狩野川に注いでいるが、合流地点の水の色が雲泥の差で柿田川の透明性が証明される。以前、私は新聞誌上でオイル(石油)に次ぎ、今後は水が紛争の火種になるとアジアの水資源を例に警鐘を鳴らした。そして国内では郡上八幡を皮切りに、旧中山道の奈良井宿、安曇野、久留里、そして鳥海山を遠望出来る牛渡り川まで、水資源を題材に旅をし、「竹原洋介旅便り」(織姫新聞)でご案内してきた。さらに柿田川については、拙著『日本讃歌』の(大いなる大地の恵み・伏流水)の章でも書いた。昨今、地球規模での環境破壊が顕著になり様々な分野で叫ばれる中、こうした問題は他人事では済まされない。そういう意味でも今夏、日本で開催される北海道洞爺湖サミットが注目されるところだ。
   河津桜の濃いピンクが
   ひと足先に 春の到来を告げている
   一方 随道に向うなだらかな登り坂には
   いまだ多くの雪が残る
   かつて踊り子が通ったであろう
   この九十九折りも
   今はひっそりと時を刻んでいる
   そして かじかんだ手に
   息を吹きかけながら 
   私はひとり 峠を越えた
   雪の上に
   しっかりとした足跡を残しながら

再び 九州へ!

 2月22日、4カ月ぶりで福岡空港に立つ。今回の旅の目的は、大宰府天満宮境内にある延寿王院、玄海灘姫島、福岡市博物館にある国宝の金印。
 まず、延寿王院。文久3年(1863)8月18日の堺町御門の政変(長州対会津・薩摩の葛藤で長州の堺町御門警衛が御免になった)以降、都を追われた七卿のうち三条実美、三条西季知、東久世道禧、四条隆謌、壬生基修の五卿が、慶応元年(1865)1月4日、功山寺を発し外浜(下関市中之町)より渡海し筑前へ。、その後、ここ大宰府に滞留し、西郷隆盛や高杉晋作、坂本竜馬などと談議を重ねた場所だ。
 ここに現存する高杉晋作の書簡(妻雅からの手紙の裏に返書を書いた)をこの目で見たかったからだ。過日、私は九州小倉で売りに出されていた高杉晋作が書いたとされる掛け軸を購入したばかりで、彼の筆跡を直に確認しその真贋を確かめたかった。当初、どうせ贋作と思いつつあまり期待をしていなかったが、その後、彼が書いたとされる各種書簡の筆跡と照合した結果、私なりに購入の掛け軸はまさしく彼が書いたものと断定している。現在「何でも鑑定団」に真贋鑑定を依頼中。
 ところがどうしたものか、私の失念(事前に調べておいたメモを自宅に忘れた)で延寿王院でなく近隣の光明寺に行ってしまった。その後、時間が無く後髪を引かれる思いでバスに乗り湯布岳の下を通って別府へ。別府の街が見えた頃、いく筋もの噴煙が確認出来た。さすが湯の街だと感心しきり。私は数年前、四国の八幡浜からこの別府にフェリーで来たことがある。その時はここから」列車で鹿児島に直行している。
 ところで、金曜日にもかかわらず別府の街はひっそりとしていて、夜の繁華街も人影もまばらだった。宿泊した清風荘の私の部屋からは別府湾が眼前に一望出来て、朝、部屋の窓を開けると海鳥が餌をもらえると思ってか差し出す手元まで飛んでくる。観光用としては面白い経験だったが、自然界と人間が、こんな関係で良いものか考えさせられた。
 さて、午後再度博多に戻り、JR筑肥線で筑前深江付近にさしかかる頃、玄界灘洋上に姫島が見えて来た。この島は、勤皇歌人の野村望東尼が元治元年(1864)11月、俗論党に追われて九州にやって来た高杉晋作を、十日間ほど匿いその罪で遠島された場所だ。しかしその後、遠島を知った晋作は手配のものを使って馬関(下関)に奪還している。この行動が「義」に厚い彼の一面を知る上で大変興味深い。わずか十日間の滞在とはいえよほど恩義に感じたのだろう。縁とは不思議なもので、その後、望東尼は晋作の最後の瞬間を看取っている。


 次に、前回(11月4日)見られなかった国宝の金印。この金印は福岡市博物館に現存する。天明4年(1784)福岡から程近い志賀島で発見された。小さいが室内の照明で、「漢委奴国王」と刻まれているのが確認出来る。わずか二センチ四方で取っ手にはとぐろを巻いた蛇の彫刻が施されている。素晴らしいのひと言でここに来た甲斐があった。
 今回の旅は、このように駆け足だったものの実に満足したものとなった。


  眼前 遥か洋上に 孤島姫島を見る
  悲しみの島 姫島
  慶応元年十一月 六十歳の老いた尼が
  寒風吹きすさぶ牢獄で
  御国を思いて涙した島 姫島
  尼の名は望東禅尼
  そんな尼を 天は見捨てることはなかった
  忠・孝・義厚いひとりの若者が
  彼女を奪還する
  時に慶応二年九月十六日
  その若者の名は東行高杉晋作
  それは運命か
  尼はこの若者の早すぎる死を看取る

     面白き こともなき世を おもしろく
          すみなすものは 心なりけり

2008年1月11日金曜日

春の訪れ北帰行


 千葉県印旛郡本埜村。この地が全国的に知られるようになったのはつい最近。NHKで放映された白鳥の飛来地としてだ。極寒の北極海から越冬のために飛来する白鳥は、南は九州に至るまで全国々浦々に及ぶ。
 しかし、ここ本埜村はその飛来数で他を圧倒しピーク時には八百羽を超える。昨年10月13日に飛来してその後数を増やした。現在、八百四十羽だという。この地が他の飛来地と違っているのは、白鳥のためにこの時期だけ作られた一町歩の水田にひしめいていることだ。しかし、今回私が訪れた1月10日は少々様子が異なっていた。お目当ての白鳥は数羽しか見当たらず、同じ渡り鳥の鴨が数百羽賑わっていたからだ。この地で餌付けをしている出山さんの話によると、白鳥は鴨に追い出されるように、ここから数キロ先の自然の餌が豊富な田に出張?しているとのこと。

 いつものように出山さんが幼稚園児に白鳥の話をしていて、終えるのを見届けると私は出山さんの車に便乗させていただきその白鳥がいるという田に案内してもらった。すると、いることいることその数は数百羽。
 しかし、この白鳥たちもあと二ヶ月もすると再び旅立つ。その頃になると食が細くなるからその仕草で早晩飛び立つことが分かるらしい。そして春一番が吹くと時を同じくして、その南風を追い風に飛び立って行く。いかに本能とはいえ私たち人間は、そうした鳥たちの習性から春の到来を予感する。
 この本埜村に 初めて白鳥が飛来したのが平成四年。この時わずか六羽だったがその後、倍々ゲームで増え続けてきた。
 今は亡き出山翁が、手塩にかけてわが子のように愛情を注いできた産物だ。今ではご子息の輝夫氏と地元の「白鳥を守る会」の方々に見守られながら、親から子へ、そして孫へと大自然の摂理に従って、まるで精緻な計器でも内臓しているかのように毎年この地にやって来る。
 「本当に可愛い子供たちですよ」と、指定保護鳥に目を細める輝夫氏。彼は白鳥から多くの事を学んだという。当初、自然界で育った白鳥に餌付けをすることが、本当に彼らのためになるのかという素朴な疑問があって、地元でも根強い反対意見があった。しかし、全地球規模で環境破壊が進む中、今ではそうした人たちも最大限の協力を惜しまなくなったという。

 「大変悲しいことですが、自然界で育った動物にも餌付けをしなければならないような地球環境になってしまった。壊すのは簡単ですが、取り戻すのは容易ではない。その点まだここ本埜村に、人と鳥との共生の場があることに私は誇りを持っています」と感想を漏らしたのが印象的だった。
 「白鳥を守る会」の方の話によると、朝7時と夕方4時の餌付け時間がくると、白鳥たちは一斉に、餌を運んでくれる輝夫氏宅の方角に首を向けて鳴いたり、また、真夜中に仲間が数千キロの彼方から飛来するのを察知してか、北の空に向かって合唱するという。これらは学術的には到底説明のつかない摩訶不思議な習性だ。こうして見ると鮭の遡上などもそうだが、まだまだ自然界には学術的に説明困難なものが多い。
 さて、このように自然保護に取り組んでおられる方々だが悩みの種がある。一部訪問者のマナーの悪さだ。犬や猫同伴の者や、夜間ヘッドライトを点けたままの見学者など、警戒心の強い白鳥だからこそ最大限の注意をはらって欲しいという。
 この本埜村にいつまで白鳥が飛来し続けるか知る由もないが、それは取りも直さず私たち人間が暮らしていけるかどうかのバロメーターであることを肝に銘じたい。
  そうした観点から今後、次代を担う若者たちがこれら実態を見て、動物たちの生態系や地球環境保全に、少しでも興味を持ってくれればと願わずにはいられない。それはともあれ春は目前だ。

2007年12月11日火曜日

北温泉は江戸元禄の開湯

 雨男の私としては珍しく、快晴の12月2日日曜日、栃木県那須にある北温泉に行って来た。上空若干の風があったものの、この時期としては暖かな日和だった。
 この北温泉の開湯は、江戸元禄(徳川五代将軍綱吉1688~1704)頃というから歴史ある温泉だ。
 以前、私の著書「日本讃歌」の中でもご紹介したお気に入りの温泉だ。何が良いかといって、湯量が豊富で周囲が実に閑静な一軒宿だから。宿に入る手前にある広々としたプールを思わせる屋外浴場は、実際に大人でも楽しめる。
 また、ここの名物「天狗の湯」は、壁に大小四つの天狗面があり大きな目、大きな鼻で凄みを効かす。男女別の浴場が数箇所あるが、この天狗の湯は混浴だ。最近では若い女性客もこの湯に入って帰るという。この日も二十代の女性二人と四十代後半の男性、それに老人が入浴を楽しんでいた。私たちの面前でも彼女たちは決して恥らうこともなかった。この天狗の湯の壁を隔てた山側に、湯量豊富な打たせ湯もある。
 宿は度重なる増築を重ねたからか、くねくねとして迷路のようだ。薄暗い廊下にあるお灯明が隙間から入り込む微風に揺れている。
 この日私たちは三時間ほどの立ち寄り湯だった。料金は相場の七百円。
 露天の湯に浸っていると、周囲の山から押し出されるように湧き出た真っ白な雲が、風にちぎられ次から次へと頭上を去る。初冬の昼下がり、静寂の中、姿見えねど山鳥の声。こうしていると普段気にも留めない「音」というものが、これほどまでに気になるものか不思議な気がした。宿の横ではただせせらぎだけが心地良く響いていた。そして山はもうすぐ冬支度をする。 

2007年11月26日月曜日

九州は ♂元気印♂

 今回縁あって九州佐賀の「多久聖廟」にお邪魔し、多久市、多久市教育委員会、財団法人「孔子の里」主催による「第10回全国ふるさと漢詩コンテスト」の表彰式及び最優秀賞碑文の序幕式に参列させて頂いた。併せて幕末の志士たちの舞台にもなった長崎、また、その志士たちに多大な思想的影響を与えたとされる高山彦九郎が眠る久留米の遍照院、それに国宝「漢委奴国王印」の金印が発見された志賀島を望む博多に旅した。
 まずは「丹邱(仙人が住むような風光明媚な所)の里」佐賀県多久市の「多久聖廟」からご案内しよう。

その名が示すとおり周囲山で実に閑静、心が癒される。宝永5年(1708)四代邑主多久茂文が、領内の平和と繁栄を願いこの地に儒学の祖、孔子を祀る聖廟を創建した。来年がちょうど節目の創建300年を迎える壮麗な建物だ。



 室内には他の孔子廟には見られない様々な文様が描かれていて、四霊と貴ばれる麒麟、鳳凰、龍、亀に加え、鯉など日本的な文様も混じる。聖廟正面には孔子像を中心に顔子、曽子、子思子、孟子といった孔子の弟子たちが配列されている。
 ここ多久聖廟は、毎年春、秋に孔子を偲んで中国古来の祭典、「釈菜」が行われる。敷地には学問を好み儒学を尊ぶ多久茂文が、身分の区別なく学べる学問の府「東原庠舎」を併設した。また、聖廟へと続く聖堂小路には昔ながらの槙の生垣が続き、藩政時代の薫りを今なお留めている。

 それとは別に、佐賀藩と言えば近代日本の黎明j期である維新の頃、私がまず思い浮かべたのが各種近代法制を確立し、初代司法卿そして参議を歴任した江藤新平だ。しかし彼は明治7年(1874)朝鮮出兵を巡る、いわゆる征韓論問題で運悪く自身が貢献した時の政府に梟首されている。歴史とは時にはそうした皮肉な結果を招く。

 さて、今回の私の旅は長崎、多久、久留米、福岡だったが、幕末に興味ある私にとって、長崎と言えば何と言っても史跡料亭「花月」だ。江戸の吉原、京の島原、長崎の丸山は天下の三大遊郭として名を馳せた。ここ丸山の花月(引田屋)は寛永9年(1642)創業というから360年を超える老舗で、特に幕末の頃、尊王攘夷を標榜する志士たちの溜まり場となっていた。柱に坂本龍馬の刀傷も残る。映画「ぶらぶら節」もここで撮影された。その後、昭和35年長崎県の史跡に指定され、全国的にも珍しい「史跡料亭」として営業されている。館内の集古館には頼三陽や坂本龍馬等の直筆の書が展示されていて多くのファンを喜ばせてくれる。


 また、グラバー邸は、長州の高杉晋作、伊藤俊輔(博文)がグラバーにイギリスへの渡船話や来る倒幕に向けての武器購入、蒸気船の購入話を持ちかけたとされる応接間が今も残されていて当時の晩餐を彷彿とさせる。
 久留米は遍照院。ここは私が生まれ育った栃木県足利市から程近い、群馬県太田市細谷に生まれた「寛政の三奇人」のひとり高山彦九郎が、北海道を除く日本中を旅して最後に辿り着いた場所だ。
ここで自身の思想があまりにも当時としては斬新すぎたのだろう周囲に理解してもらえず悲観して自刃している。しかし彼の志はその後、吉田松陰、そして弟子の高杉晋作等に受け継がれて見事開花した。蛇足ながら重要なことなので留めて置きたいが、長州藩士吉田寅次郎矩方が安政5年後半から吉田松陰と名乗るようになったのは、実はこの遍照院にある高山彦九郎の墓に刻まれた戒名「松陰以白居士」から採ったものと、私は他の状況とも関連して断定し、誌上に発表したところ太田市細谷にある『高山彦九郎記念館」の関係者も驚かれていた。
 松陰は常々、自分は彦九郎の後塵を継ぐ覚悟と言ってきた。彦九郎に心酔していた寅次郎のこと、まさにこの戒名から採ったことは疑いのないところだ。しかしそのことはあまり知られていない。
 その後、意志を引き継いだ松陰が、彦九郎の思想を高杉晋作はじめ松下村塾生に伝えて新しい時代が到来したことは周知のとおり。
 次に福岡は志賀島を眼前に望む福岡タワー。志賀島は「漢委奴国王印」と刻まれた金印が天明4年(1784)に発見された島だ。この周辺は古くから大陸との交易が盛んに行われていたと見られる。その国宝の金印が現在、福岡タワー近くの福岡博物館に現存するのでこちら方面に旅行された場合には是非立ち寄っていただきたい。入場料200円。
 以上のように今回の旅は有意義な旅で、一言で言うなら「九州は元気だ」という印象が強い。唐津くんちやバルーンのイベントに多くの人々が参加して、その熱気は十分伝わってきた。最後に、前述の多久市長に、来年多久聖廟創建300年と足利学校「釈奠」100年というそれぞれ節目の年を迎えるので、これを機に出来たら多久市と足利市両市民の交流の場を設けたいという私の提案に対して市長から全面的協力の快諾を頂いた。今後はこれをどう進展させていくか、知恵の出しようでもある。同時に各方面からのご協力も頂きながら是非成功に結び付けたら嬉しい。