2007年12月11日火曜日

北温泉は江戸元禄の開湯

 雨男の私としては珍しく、快晴の12月2日日曜日、栃木県那須にある北温泉に行って来た。上空若干の風があったものの、この時期としては暖かな日和だった。
 この北温泉の開湯は、江戸元禄(徳川五代将軍綱吉1688~1704)頃というから歴史ある温泉だ。
 以前、私の著書「日本讃歌」の中でもご紹介したお気に入りの温泉だ。何が良いかといって、湯量が豊富で周囲が実に閑静な一軒宿だから。宿に入る手前にある広々としたプールを思わせる屋外浴場は、実際に大人でも楽しめる。
 また、ここの名物「天狗の湯」は、壁に大小四つの天狗面があり大きな目、大きな鼻で凄みを効かす。男女別の浴場が数箇所あるが、この天狗の湯は混浴だ。最近では若い女性客もこの湯に入って帰るという。この日も二十代の女性二人と四十代後半の男性、それに老人が入浴を楽しんでいた。私たちの面前でも彼女たちは決して恥らうこともなかった。この天狗の湯の壁を隔てた山側に、湯量豊富な打たせ湯もある。
 宿は度重なる増築を重ねたからか、くねくねとして迷路のようだ。薄暗い廊下にあるお灯明が隙間から入り込む微風に揺れている。
 この日私たちは三時間ほどの立ち寄り湯だった。料金は相場の七百円。
 露天の湯に浸っていると、周囲の山から押し出されるように湧き出た真っ白な雲が、風にちぎられ次から次へと頭上を去る。初冬の昼下がり、静寂の中、姿見えねど山鳥の声。こうしていると普段気にも留めない「音」というものが、これほどまでに気になるものか不思議な気がした。宿の横ではただせせらぎだけが心地良く響いていた。そして山はもうすぐ冬支度をする。 

2007年11月26日月曜日

九州は ♂元気印♂

 今回縁あって九州佐賀の「多久聖廟」にお邪魔し、多久市、多久市教育委員会、財団法人「孔子の里」主催による「第10回全国ふるさと漢詩コンテスト」の表彰式及び最優秀賞碑文の序幕式に参列させて頂いた。併せて幕末の志士たちの舞台にもなった長崎、また、その志士たちに多大な思想的影響を与えたとされる高山彦九郎が眠る久留米の遍照院、それに国宝「漢委奴国王印」の金印が発見された志賀島を望む博多に旅した。
 まずは「丹邱(仙人が住むような風光明媚な所)の里」佐賀県多久市の「多久聖廟」からご案内しよう。

その名が示すとおり周囲山で実に閑静、心が癒される。宝永5年(1708)四代邑主多久茂文が、領内の平和と繁栄を願いこの地に儒学の祖、孔子を祀る聖廟を創建した。来年がちょうど節目の創建300年を迎える壮麗な建物だ。



 室内には他の孔子廟には見られない様々な文様が描かれていて、四霊と貴ばれる麒麟、鳳凰、龍、亀に加え、鯉など日本的な文様も混じる。聖廟正面には孔子像を中心に顔子、曽子、子思子、孟子といった孔子の弟子たちが配列されている。
 ここ多久聖廟は、毎年春、秋に孔子を偲んで中国古来の祭典、「釈菜」が行われる。敷地には学問を好み儒学を尊ぶ多久茂文が、身分の区別なく学べる学問の府「東原庠舎」を併設した。また、聖廟へと続く聖堂小路には昔ながらの槙の生垣が続き、藩政時代の薫りを今なお留めている。

 それとは別に、佐賀藩と言えば近代日本の黎明j期である維新の頃、私がまず思い浮かべたのが各種近代法制を確立し、初代司法卿そして参議を歴任した江藤新平だ。しかし彼は明治7年(1874)朝鮮出兵を巡る、いわゆる征韓論問題で運悪く自身が貢献した時の政府に梟首されている。歴史とは時にはそうした皮肉な結果を招く。

 さて、今回の私の旅は長崎、多久、久留米、福岡だったが、幕末に興味ある私にとって、長崎と言えば何と言っても史跡料亭「花月」だ。江戸の吉原、京の島原、長崎の丸山は天下の三大遊郭として名を馳せた。ここ丸山の花月(引田屋)は寛永9年(1642)創業というから360年を超える老舗で、特に幕末の頃、尊王攘夷を標榜する志士たちの溜まり場となっていた。柱に坂本龍馬の刀傷も残る。映画「ぶらぶら節」もここで撮影された。その後、昭和35年長崎県の史跡に指定され、全国的にも珍しい「史跡料亭」として営業されている。館内の集古館には頼三陽や坂本龍馬等の直筆の書が展示されていて多くのファンを喜ばせてくれる。


 また、グラバー邸は、長州の高杉晋作、伊藤俊輔(博文)がグラバーにイギリスへの渡船話や来る倒幕に向けての武器購入、蒸気船の購入話を持ちかけたとされる応接間が今も残されていて当時の晩餐を彷彿とさせる。
 久留米は遍照院。ここは私が生まれ育った栃木県足利市から程近い、群馬県太田市細谷に生まれた「寛政の三奇人」のひとり高山彦九郎が、北海道を除く日本中を旅して最後に辿り着いた場所だ。
ここで自身の思想があまりにも当時としては斬新すぎたのだろう周囲に理解してもらえず悲観して自刃している。しかし彼の志はその後、吉田松陰、そして弟子の高杉晋作等に受け継がれて見事開花した。蛇足ながら重要なことなので留めて置きたいが、長州藩士吉田寅次郎矩方が安政5年後半から吉田松陰と名乗るようになったのは、実はこの遍照院にある高山彦九郎の墓に刻まれた戒名「松陰以白居士」から採ったものと、私は他の状況とも関連して断定し、誌上に発表したところ太田市細谷にある『高山彦九郎記念館」の関係者も驚かれていた。
 松陰は常々、自分は彦九郎の後塵を継ぐ覚悟と言ってきた。彦九郎に心酔していた寅次郎のこと、まさにこの戒名から採ったことは疑いのないところだ。しかしそのことはあまり知られていない。
 その後、意志を引き継いだ松陰が、彦九郎の思想を高杉晋作はじめ松下村塾生に伝えて新しい時代が到来したことは周知のとおり。
 次に福岡は志賀島を眼前に望む福岡タワー。志賀島は「漢委奴国王印」と刻まれた金印が天明4年(1784)に発見された島だ。この周辺は古くから大陸との交易が盛んに行われていたと見られる。その国宝の金印が現在、福岡タワー近くの福岡博物館に現存するのでこちら方面に旅行された場合には是非立ち寄っていただきたい。入場料200円。
 以上のように今回の旅は有意義な旅で、一言で言うなら「九州は元気だ」という印象が強い。唐津くんちやバルーンのイベントに多くの人々が参加して、その熱気は十分伝わってきた。最後に、前述の多久市長に、来年多久聖廟創建300年と足利学校「釈奠」100年というそれぞれ節目の年を迎えるので、これを機に出来たら多久市と足利市両市民の交流の場を設けたいという私の提案に対して市長から全面的協力の快諾を頂いた。今後はこれをどう進展させていくか、知恵の出しようでもある。同時に各方面からのご協力も頂きながら是非成功に結び付けたら嬉しい。

2007年10月31日水曜日

一日三感動の勧め

 10月31日(水)久々に早朝、散歩した。朝日が眩く、周囲の木々も最後の輝きを見せる。特に団地内の銀杏並木は素晴らしい。
 ところで、以前JRの関連企業(サービス業)の非常勤講師を依頼されて数年間、春先の3日間、現場第一線の若年社員を前に講義を行ったことがあったが、その講義の中で私は、「一日三感動の勧め」を奨励した。
 人はややもすると、日々の業務に埋没して「感動」することなく生活してしまう。感動するということは、人間本来の生活に戻ること。一見、一日に三度も感動するということは至難の業のように思える。しかし、良く考えてもらいたい。例えば、通勤途上、路傍の名も無い小さな黄色い花を見て感動、また、駅で中年の女性が混雑の中、母親だろうか、老婆の手をとり寄り添うように階段を登って行くのを見て感動、はたまた、駅の整列乗車に駅員が奮闘しているのを見ては感動といった具合に、視点を少し変えることで私たちの周辺には「感動」がキラ星のごとくある。
 実は今日、散歩をしていて感動をした。三郷駅に向かう歩道で、タバコの吸殻をひとつづつ拾い集めているナイスミドルがいた。心無い者の後始末を全くタバコに縁のない人が始末をする。頭が下がる思いと同時に爽やかな気持ちになった。それに秋の太陽の程よい暖かさや早朝の空気の美味しさに感動。最後は家に帰る道すがら、息子(二男)が自転車で急いで駅に向かうのに出合った。あちらは気付かなかったようだが、父親とすれば一人前に通勤する息子の姿を見てその逞しさに感動した。

2007年10月25日木曜日

小京都@足利

10月20日〔土〕「みさと雑学大学」(埼玉県三郷市瑞沼市民センター)にて「いい日旅立ち 素晴らしき哉日本の旅」と題して約2時間の講演を行いました。受講者及び関係の市職員等約60名が参加。講演内容は下記のとおり。
① 人はなぜ「旅」に出るのか? ②「旅」人それぞれの楽しみ方(気の向くままのひとり旅か、それとも目的=テーマをもって旅するか) ③「青春18きっぷ」「大人の休日倶楽部きっぷ」今、中高年に人気の秘密 ④旅の話題あれこれ ⑤これからの人生を楽しむために、「余生」の考え方ひとつで人生が変わる。

講演終了後、私、竹原洋介とともに旅行がしたいとの声が上がり、来春、私の出身地である「小京都・足利」を提案したところ、参加者から大きな拍手を頂きました。



 従って本日はその足利について先行してご案内しようと思います。

まず、「小京都」という定義ですが、古い町並みや風情が京都に似ているということで、各地に名付けられた街の愛称です。正式には1985年京都市を含む26市町が京都で第1回総会を開催し、その後の1988年の第4回総会において、次のような参加基準が定められました。①京都に似た自然と景観 ②京都との歴史的なつながり ③伝統的な産業と芸能があること 現在、いわゆる「小京都」と呼ばれる街は、北は北海道の「松前」から南は九州「知覧」までの50市町で、そのひとつが私の出身地「足利」です。当地は関東平野の北端に位置する風光明媚な土地で、市の名前の由来にもなっている足利幕府開祖足利尊氏ゆかりの「鑁阿寺」や、日本最古の大学「足利学校」がある街として、市制86年を迎えようとしています。
足利学校は15世紀、フランシスコザビエルにより世界に紹介された日本最古の大学で、当時は学僧3,000名が日夜勉学に励んだとされています。境内の孔子廟では毎年11月23日に儒学の祖である孔子と、その弟子を祭る儀式「釋奠」(せきてん)が開催される。こうした歴史・文化の色濃い街に、県外からも多くの観光客が訪れます。
 また、意外と知られていませんが、以前私が誌上でご紹介した吉田松陰、そして後に弟子の高杉晋作といった維新原動力のふたりの若者が当地を訪れています。皆さんも意外と思われるでしょう?
 ところで、孔子廟が現存し、漢字という共通の文化を通じて交流を惜しまないのが、主だったところで日本最古の孔子廟を持つ九州佐賀の「多久聖廟」、東京湯島の「湯島聖堂」、岡山の「閑谷学校」です。
多久聖廟は来年創建300年、足利の釋奠は100年の節目の年を迎えます。両市ではきっと盛大な催しを企画していることでしょう。
さて、足利の旧市街はその鑁阿寺や足利学校を中心に、古い街らしく道路が碁盤の目のようになっていてJR足利駅、東武足利市駅からそれぞれ徒歩8分、散策も容易だ。
北西部の織姫山中腹にある織姫神社境内からは、市の南方を流れる渡良瀬川をはじめ足利市街が一望出来る。毎年8月の第1土曜日に行われる「北関東一の大花火大会」はこの渡良瀬川河畔で開催されます。また、市中の道路標識とともに足利出身の故、相田みつおの詩碑もあり訪れる人の目を楽しませてくれる。他の観光施設として市の東部に、江戸時代に備前鍋島藩で生産された伊万里、鍋島2000点を所蔵する陶磁器美術館「栗田美術館」、樹齢140年を超える大藤300本が鑑賞出来る「あしかがフラワーパーク」、それに足利七福神などもあって訪れる人を飽きさせない。更に健脚向きには織姫山からのハイキングコースがお勧めで、浄因寺、それに連なる名草の巨石群まで足を伸ばしたら良いでしょう。
 こうして春夏秋冬、それぞれ趣のある足利で、意外や市民もあまり知らない穴場スポットがある。旧袋川沿いにある70本の実に見事な枝垂桜の並木だ。まだ若木なのでこれからが楽しみ。
 最後に、食事処として古都足利の奥座敷にある割烹そば大正庵、ここは両崖山を借景にして落ち着いた雰囲気の中で食事が楽しめる。また、足利土産として、新杵堂の和菓子と香雲堂の古印最中が推薦出来、私も時々食べています。
以上、簡単にご紹介しましたが是非皆様も一度、歴史と文化の街、そして私のふるさと「小京都・足利」にお気軽にお越し下さい。もしかして街の片隅でふと、あなたとお逢いするかも?

2007年9月17日月曜日

青函連絡船今昔

 旧国鉄時代のこと、日本の輸送の大動脈として、本州と北海道を4時間で結んでいた青函連絡船。それも今では遠い昔のこととなってしまった。しかし、今年(平成19年)9月1日、新たに豪華高速フェリー「ナッチャンLera」が最速1時間45分で青森と函館を結んだ。
 私、竹原洋介は、その記念すべき処女航海の日、函館発、朝7時30分の青森行の一番船を快晴のもとで見送った。
しかし、私の思惑とは裏腹に、会場のフェリーターミナルは、記念の横断幕や華々しいレセプションもなく、数人のコンパニオンに見送られるだけの実にひっそりとしたものだった。このことはJR函館駅とフェリーターミナルとを結ぶ地元の帝産バスの運転手さえあっけにとられるほどだった。当日の一番船に合わせて、会社では2台の送迎バスを予定していた。しかし1台はキャンセル、運行の1台も、座席に相当の空席が目立つ。
 また、前夜、私は市内の居酒屋で聞き取りをしたところ、連絡船の就航について多くの人が知ってはいたが、具体的な就航日までは知らない人が多かった。それもこれも、地元の行政、JR北海道、報道各社、それに何といっても住民の盛り上がりが乏しかったと言わざるを得ない。因みに、運営会社は東日本フェリーだ。JRにしてみれば競争相手だからなのか、函館駅での案内などもない。しかし、この開業は少なくとも北海道民にとっては、待ちに待った言わば活性化の起爆剤としてのイベントのはずだ。すべての関係機関が一丸となって、本州からのお客様を「ようこそ!」と迎える気持ちが必要なのではなかろうか。少なくても私にはそう思えて、地元の盛り上がりを一番に期待していただけに残念でならない。しかし今後、是非とも「頑張れ!」とのエールだけは送り続けたい。私は、旧国鉄時代の「摩周丸」に何度も乗船した。あの出帆を知らせるドラの音や蛍の光、それに洋上を浮遊する色とりどりのテープ。旅人にとってすべてを感傷的にさせるには十分の舞台演出だった。しかし、そうした古いタイプの旅と決別して、現代の船旅は思った以上に明るく思えた。そういう意味では、私の知る「旅情」溢れる旅というものはもう今やいずこ。

















新たな「船旅」を東日本フェリーから。 ReraWalkerより画像引用