2009年12月21日月曜日

冬の下関・鞆の浦

 
 12月18日夕闇迫る頃、私は人気のない東行、高杉晋作(本名:春風)の墓前にいた。周囲は観光客もいず私ひとり。折から降りしきるみぞれの中で私は傘もささず東行と語らう。
     おもしろき こともなき世を おもしろく (東行)
            生きてこそあれ 春風の吹く (竹原)
 人間五十年下天のうちに比ぶれば 夢幻のごとくなり 
   ひとたびこの世に生を受け滅せぬもののあるものか(敦盛)
 そんな短い人生の中で、私が選んだライフワークが東行、高杉晋作。私の残された人生を晋作とともに生きる。まず、晋作のクロニクルを、そして「勤皇倒幕の志士 高杉晋作にみる燃焼の美学」を必ず世に残すことを墓前に誓った。
 ⇒12月18日
東京~下関~長府~小月~下関   ※長府の功山寺は五度目の訪問になるが、五卿の間は始めての見学で、ガイドの平松さんと当時の余情に浸る。
 ⇒12月19日
来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」が決定。
高杉晋作と小倉戦争でともに幕府軍と戦った坂本龍馬。彼はその時の長州軍の海軍総督であった高杉晋作の、その非凡な戦術を故郷の姉の乙女に手紙で詳しく伝えている。
 さて、私は下関から一路瀬戸内海のビューポイント鞆の浦へ。鞆の浦は龍馬がいろは丸海難事故で、紀州藩と談判して勝利を勝ち取った場所だ。
その鞆の浦は現在、景観論争の真っ只中で当事者で渦中の人、NPO法人代表松居秀子さんにお会いして来た。松居さんは「鞆まちづくり工房」の代表として活躍されている。まさにこの場所が龍馬と紀州藩がいろは丸海難事故後の談判をした旧町役人魚屋萬蔵宅跡で、現在は旅館及び食堂となっている。居間には龍馬の大きなパネル写真と、彼が発したとされる文言が掛け軸になっていた。
 私はそこで思いがけず龍馬の大ファンだという親子連れに出会い短時間ではあったが懇親を深めた。その息子さんは信州安曇野で、欧風ログハウスの販売を手がけていて近くスエーデンに旅立つそうだ。偶然だが私は同じ安曇野出身の漆芸家石本愛子氏と新春対談を予定している。タイトルは日本の伝統工芸「漆の美」更なる進化を求めて。乞うご期待。問い合わせ:織姫新聞0284-21-8843

2009年11月30日月曜日

竹原洋介 155万円馬券をゲット!

 11月15日京都競馬場の第11レースエリザベス女王杯。1着11番人気のクイーンスプマンテ、2着12番人気テイエムプリキュア、3着1番人気ブエナビスタと入り、3連単1,545,760円の大波乱。
 私、竹原洋介はエリザベス女王杯の行われる2週前から友人たちに、今回6枠11番が必ず馬券に絡むと予言し、見事その11番が2着に入り155万円の高額配当になった。因みに11番の複勝は 2,150円。
1着のクイーンスプマンテはエリザベス女王にドンピシャの名前。1番人気のブエナビスタがかろうじて驚異的な末脚を使い3着に入り面目を保った。
 私、竹原洋介は日々、JRAの陰謀(?)に挑戦。

2009年9月22日火曜日

摩訶不思議、日本人の行動力学

 9月17日、わが街三郷にララポートが開業した。
これほどまでに混雑するとは予想だにしなかった。車の渋滞、人の波。本当に異常だ。世は昨年来の百年に一度といわれる金融クライシスを発端に、どの分野でも全く活気を失っていて向こう数年は立ち上がれないだろうと言われるさなか、この混雑を見ていると最近オープンした隣町レイクタウン大型商業ゾーンといい、ここララポートといい、そんなことは露だに感じさせない。目新しいものが出来ると脱兎のごとく飛びつく日本人の行動パターンは、同じ日本人として全くついて行けない。この状態を一体どう表現したら良いのだろう。

2009年9月19日土曜日

近況報告

 ①9月12日、日光市小代地区の、市主催の自然観察会に行って来た。市民ら約20名が雨模様の中参加した。
私は「絶滅危惧種シモツケコウホネと里を守る会」の柴田さんご夫婦と有意義な意見交換が出来満足。その話を今度は足利市矢場川で一生懸命水質浄化推進をされている新藤さんはじめそのグループの方々にお話してきた。近い将来、両グループの交流も計画したい。水質が県内ワーストの矢場川を、長年かけて浄化し今ではコウホネが見事に咲くようになった皆さんの労苦に対し心から謝意を表したい。
今回私は、可憐に咲くコウホネの近くの側溝で元気に泳ぐ多くのメダカを見た。自然が元に戻りつつあり嬉しかった。
 ②9月12、13日、北の大地函館に行って来た。旅の目的は日本初の北海道からの総理大臣誕生を道民がどう受け止めているのか。また、二年前就航した津軽海峡高速フェリーがその後どうなっているかこの目で確認したかったからだ。
 まず、前段の北の大地から初の総理大臣誕生は、鳩山首相の室蘭を除き道内各地では冷静に受け止めているようだ。百四十年来の行政システムの根幹を大きく変える今回の政権交代が、国民にはそのビジョン、手法の面でまだ身近に感じられていないということもある。実感として感じられるのは先になろう。
 後段の新青函連絡船については、2年前の就航から盆の帰省客輸送を除き、780名の定員のところ各日平均150名で採算ベースには遠く及ばないとのこと。そうした理由から残念ながら今月9月末日をもって運行廃止となった。
 私は更に足を伸ばして渡島富士(駒ケ岳)周辺まで行って来たが、そこは中国、韓国からの団体旅行客で溢れんばかりだった。私たち日本人が忘れてしまった日本の良さを彼らから学ぶべきかも知れない。
 さて、今回の上記旅行印象については織姫新聞に掲載したのでご希望の方は織姫新聞まで。[0284-21-8843]

2009年8月10日月曜日

忘れてはならぬ夏

 今年もまた、苦い夏がやって来た。65年前(1945年)の夏、8月6日に広島、8月9日に長崎に投下された世界初の原子爆弾。広島14万、長崎7万の計21万人強の罪もない一般市民が犠牲になった。
 私が中学の頃、たまたま広島の原子爆弾落下直後の悲惨な光景を書き記したものを読んだ。そのことは少年であった私の心に深く、そして長いこと戦争に対する嫌悪の情を生むことになる。

 そして今年もまもなく終戦の日(8月15日)を迎える。私はこの頃になると、あの戦争は一体何であったのか。また、同時に平和という重み。命の尊さを考えずにはいられない。

 さて、8月8日、私は新宿住友ビル48階にある「平和祈念展示資料館」に行って来た。戦時の多くの資料があり、その頃の家庭や、戦地の様子を復元したジオラマなどもあって見る者の心を打つ。水戸黄門役の西村晃氏の戦争体験などもあった。

 私は拙著「日本讃歌」の中で、「知覧 戦時の生き証人」を書いたが、九州知覧にある「知覧特攻平和会館」は、1945年特攻隊員として若き命を終えた1035名の遺書、遺品等が展示されている。中でも出陣にあたって若者の心情をつづった遺書には、両親を残し先立つ自分を許して欲しいというものがあり、それを前に私は涙を禁じえなかった。
 悲しいかな恒久平和を希求する現在の人々の心とは裏腹に、時代は今、再び当時の危うい方向へと走っていると思えてならない。

 
 

2009年7月27日月曜日

日本の原風景を訪ねて(新潟県・松之山)

 人間疲れると、心癒されるものが欲しくなりそれが人によっては音楽であったり、温泉であったり、ある日見た風景であったりする。  7月25日再び私は数年ぶりに新潟県津南にやって来た。周辺には松之山温泉、天水島の棚田、樹齢80年の「美人林」というブナ
林、また、ここが日本一の積雪地である証、幽玄な空間そして滾々と湧き出す水の竜ガ窪がある。また、30万年もの時間が作り上げてきた造形の美、日本一の河岸段丘や広い農地を活用したどこまでも続くひまわり畑、更には江戸時代の文人鈴木牧之(1770~1842)が初めて世に知らしめた秘境秋山郷と、ここは大人から子どもまで大いに楽しめる所ばかり。
 特に私が好きな場所は、毎年7月25日前後になると、深い谷から湧き上がるヒグラシの大合唱、そう天水島の棚田だ。これほど多くのヒグラシが、それも一斉に聞ける場所はここを置いて他にはないだろう。
その鳴き声を聞いていると本当に心癒される。ただ、今年はそのヒグラシも数が少ないようだ。これも温暖化の影響かも知れない。
 翌26日には「駅が温泉」の津南駅で湯船にゆったり浸った。10時の入場間もなく誰も入っていない。私ひとり、これほどの贅沢があろうか。満足のゆく旅であった。

2009年7月19日日曜日

再び「シモツケコウホネ」の里へ

 7月10日、約半年ぶりに東武日光線下小代駅から数分、周囲里山に囲まれた田園地帯で、今のところ世界でここにしか確認出来ないという天然記念物「シモツケコウホネ」を見に行って来た。前回は季節はずれということもあり残念ながら花は見ることはできなかったが、今回はわずか数十メートルの側溝におよそ百五十本の黄色い可憐な花を観賞することが出来た。
 このコウホネは葉や茎が水中にあり、花だけが水上に顔を出す。環境省のレッドデータブックで、近い将来に絶滅の危険性が高い「絶滅危惧種1A類」に指定されている。
 わずか1メートルに満たない水路にコウホネをはじめ、清流の証でもある梅花藻も見られた。また、私が踏み出すたびに足元に多くのトノサマガエルの子どもが水面に飛び込む。その姿が微笑ましい。更にはホトケドジョウやオハグロトンボなども確認出来た。こうした自然を大切にし、後世に残すことが私たちに課せられた使命だと思う。「シモツケコウホネと里を守る会」の方々の地道な活動に心から謝意を表したい。

2009年6月14日日曜日

辞世の句

 いつの世の頃か、知識人の間で今生の思い出として、辞世の句なるものを残す習慣が定着するようになった。有名人のものとして主だったところでは、豊臣秀吉の「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」、西行の「願わくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ」、吉田松陰の「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」などがある。
 また、死の間際でよくもまあという、こんな句もある。十辺舎一九の「この世をばどりゃお暇してせん香の 煙とともにハイ(灰)左様なら」、都々逸坊扇歌の「都々逸もうたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな」など。
 そして私の好きな高杉晋作の「おもしろきこともなき世を おもしろく・・・」があり、下の句を後世にゆだねたものまである。彼らしいといえば彼らしいのだが。ここでは確かに晋作が生きた幕末、「一日一生」という先が全く読めない時代で、彼ほど私たちに人間究極の生き様を見せつけてくれた人間はいないと思う。それも二十七歳という若者がである。
 人それぞれ己の生きた時代の、それも死に直面した最終場面での感慨である。
振り返って、私ならどんな終局を迎えるのだろうか。残り少なくなればなるほど考える今日この頃である。

2009年5月14日木曜日

高田一三画伯 放浪の絵師”雨さん”「横手雨情」を語る

 過日、以前旅で知り合った三重県松阪市にお住まいの高田一三画伯のお宅にお邪魔し高田画伯が心酔する放浪の絵師”雨さん”「横手雨情」について話を伺って織姫新聞(栃木県足利市)に掲出した。(問い合わせ:0284-21-8843)
 横手雨情は、仲の良かった弟、勇二さんを先の大戦で亡くしてからというもの「生かされることの意味」を問い続けながら各地を転々と旅し、その間、彼特有の手法での多くの画を描き続けてきた。そして2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの瞬間をテレビで見ていて倒れ、4日後に帰らぬ人となった。
 私は高田画伯から、その雨情が描いたという一枚の画をいただき神妙な気持ちになってしまった。そこには天女だろうか、どことなく寂しそうな表情がみて取れる。彼は司馬遼太郎、三浦朱門、黒岩重吾、水上勉などの書籍カバー絵も担当していた。ご冥福をお祈りしたい。興味ある方は”雨さん”で検索してみて下さい。彼の作品や旅の記録などが観察出来ます。

2009年3月22日日曜日

旅人 竹原洋介全国デビュー

 4月14日(火)21:00 12チャンネル「開運 何でも鑑定団」に私、竹原洋介が出演します。旅行家 竹原洋介の全国デビューとなります。
 世田谷の松陰神社の吉田松陰の墓前での撮影でした。高杉晋作に心酔する私にとってまたとない場所になりました。
   
    親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらむ

    帰らじと思いさだめし旅なれば ひとしおぬるる涙松かな

2009年新春対談 (唐土久美子さん)

 歌手の唐土久美子さんとの対談を終えて、爽やかな気持ちで一杯です。
 彼女のガラスのような澄んだ歌声は今後、多くのファンを魅了することでしょう。
「白神山地」「鳥海山」「岩手山頌歌」「木島平・真珠のメモリー」など、日本の原風景を彷彿とさせる素晴らしい曲です。
 実は今、私が作詞の「麗しき日本(くに)」を作曲して下さる方を募集しています。この歌が彼女の歌声でいつまでも多くの方の心に残るよう期待しています。詩は織姫新聞のホームページをご覧下さい。

2009年2月5日木曜日

36年ぶり「月と鹿」と対面

 昭和48年3月2日、関西本線のどこの駅だったか私は当時国鉄の蒸気機関車D51882、愛称名「月と鹿」に出会っている。今回、大和路に旅した途中、思い切って大阪府茨木市にある「真龍寺」に立ち寄った。
 実は、このお寺さんの境内にこの「月と鹿」が留置されている。風雨にさらされているため塗装が所々はげているものの、朝焼けの中の重量感ある車体は、今にも動き出しそうな迫力あるものだった。(写真参照)まるで私は昔の恋人にでも会ったような懐かしさと感動を覚えた。

 数十年ぶりに甘樫丘に立った。ここから見る大和三山(畝傍山・耳成山・天の香具山)は、悠久の時を刻んでいた。ただ周囲はビルが建ち街が新たに構成されていて以前の面影はない。飛鳥寺周辺だけがかろうじて往時の面影を留める。
 当日は石舞台を訪ね、その後長谷寺へ。その頃には日が傾いてきたので予定の法隆寺には寄らずその日の宿がある京都へ。夜はいつものように祇園、そして先斗町界隈を散策した。
翌朝、前述の「真龍寺」、そして再び奈良に入る。目的は法隆寺の「百済観音」と中宮寺「如意輪観音」だ。いつ来てもそして何度見ても飽きることはない。かえって来る度に両観音菩薩と対峙する時間が長くなっているような気がしている。古来、この両観世音菩薩はいかに多くの人を魅了してきたことか。

 5年ほど前になるが、名松線車内でお会いした画家の高田一三さん。今回の旅で一夜を提供していただき、奥様ともども楽しい時間を過ごさせていただいた。3月末に織姫新聞に、゛画家高田一三 放浪の絵師「雨さん」(横手雨情「横手由男氏」)を語る゛という記事を特集するので乞うご期待!