2011年12月30日金曜日

再び陸前高田慰問へ

前回8月5日の陸前高田慰問時に、「クリスマスに再度来ますよ」と約束したので、12月24、25日と角館、滝沢村そして陸前高田に行って来た。東北は寒波が来ていたこともあり角館の武家屋敷
周辺では雪で風情を醸し出していた。久々の陸前高田は、ガレキが相当箇所で撤去されていたものの、あらためて震災の被害が甚大であったことをうかがわせた。取材で話を伺った90歳の老人にも再開できて嬉しかった。それにしてもこの寒さの中で生活している方々を思うと心痛む。皆さんに良い年が来ることを祈るだけだ。

  今日を生く 路傍の花にも 命あり
  幸せは いずくにありや 春の風

2011年12月15日木曜日

『日本讃歌2 (雲流るる果てに)』(文芸社)発売に寄せて

前作『日本讃歌(竹原洋介~心の世界)』(文芸社)から5年を経て、今回、その続編ともいうべき『日本讃歌(雲流るる果てに)』が上梓された。内容は、私が日本各地を旅して、その感動を地名入
り俳句とエッセイにまとめ、さらに「人間の幸せ」について様々な角度から考察した作品集。今後、多くの方に読んでいただきたいと考えている。
 さて、私の今後のスケジュールは、クリスマスには陸前高田への慰問、さらには1月、稚内まで列車で縦走。冬の味覚を楽しんできたい。宿泊は、稚内、札幌、函館だ。それでは読者諸兄、良いお年を!

2011年11月22日火曜日

牛渡川、鮭の遡上ふたたび

11月19日、一年ぶりで鳥海山麓の牛渡川に行ってきた。生憎の雨の中、今年も鮭の遡上を確認できて嬉しかった。また、この鳥海山麓の田畑をはじめ、列車で新潟に向かう列車の車窓からも白鳥の群れが何度か見えたのが印象に残る。鮭も白鳥も、学術的にまだ解明されていないものの、その本能に従って正確に目的地にたどり着くのは不思議としか言いようがない。今回はそうした大自然の摂理を身近に体感できた旅であった。夜は酒田の行きつけの居酒屋「ゆた華」で女将さんと話が弾んだ。

2011年11月14日月曜日

東行高杉晋作墓参のため長州へ

年に一回の東行高杉晋作墓参のため、11月10日、下関市小月(吉田町)にある、高杉晋作の墓に行ってきた。私は長府功山寺やここ東行庵に来るとパワーがみなぎる。わずか27歳の一人の若者が、この日本を一夜にして変えたパワーがどこにあったのか。「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し 衆目駭然として敢えて正視するものなし これ我が東行高杉君に非ずや・・・」伊藤博文が後年高杉を顕彰した碑文に書き込まれた有名な文言だ。これほど彼をして的を得た文言は見当たらない。元治元年12月15日わずか手勢80人で決起した雪の功山寺。山形有朋以下、諸隊が「時期尚早」と動かなかった中、彼は立ち上がった。「長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す」と、その時功山寺方丈にいた三条実美ほか5人の尊攘派公卿の面前で挨拶したその心意気に感動を禁じ得ない。藩論を武備恭順、討幕に変え、時の長州藩政府を打倒しその後の幕長戦争(四境戦争)も勝ち抜き、天皇を中心とした新しい国家体制に変えていく。わずか百五十年前に実際にあったドラマだ。ああ心躍る。

日野原重明先生 100歳記念特別講演を聞いて

過日(11月7日)、銀座中央会館において、聖路加国際病院の理事長で名誉院長の日野原重明先生の100歳記念特別講演を聞きに行った。タイトルは「耐えて生きることから生じる喜び」
 先生は10月に100歳を迎えられてなお、お元気で講演や執筆活動等、毎日精力的に過ごされている。この日も椅子に一切座ることなく講演をされていたのが印象的だった。若い頃、2度も大病をされて、まさかそんなご自分が100歳まで生きることなど夢にも思わなかったと回顧されていたがまったくそうだろう。ましてや、そうしたご自分の辛い経験から、医師になってからは患者の苦しみを深く理解できるようになったとおしゃっていた。そして入院中の辛い時間を、いつもお母様が一生懸命看病してくださったことに感謝されていた。
 この日の公演は東日本震災復興チャリティーとして、福島県の被災者の方々を招待していて、コーラス講演もあった。

2011年9月30日金曜日

戊辰戦争最大の激戦地 北越を訪ねて

 奇兵隊 異国信濃に 眠る秋

 来年1月の交通新聞の取材「奇兵隊残照」で、新潟県小千谷市と柏崎市を訪ねた。北越の蒼龍、河井継之助の前に、幕軍の死傷者400名に対して勝利者のはずの官軍側が1000名という痛ましい結果となった。
 小千谷市船岡にある招魂所には、高杉晋作と松下村塾で親交のあった時山直八の墓や、晋作が命名したという珍しい名、「無敵幸之進勝行」の墓もある。多くは年輪もいかない若者の墓である。
 柏崎小学校に隣接の招魂所には、高杉晋作が四国亡命の際、匿われた四国の侠客で勤王の志が高い日柳燕石が眠る。いつの世も戦争とは無残なものである。

2011年9月9日金曜日

おわら風の盆

 例年九月一日から三日三晩、越中八尾で踊られる「おわら風の盆」。 胡弓と三味線の音色が何とも物悲しく奏でられる。
   なまめかし 白きうなじや 風の盆
   
   酔芙蓉 わが恋に似て 赤く燃ゆ

 「おわら」の語源について地元の人に尋ねたが知っている人は少なかった。諸説あるらしい。大笑いという言葉をはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」になったというものや、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が歌い始めたからという「小原村説」など・・・
 私は風の盆に限らず、各地に残るこうした唄などにはやはり地名というか、出所をあらわすものが多いと考えている。この場合では小原村説が有力だと見ている。
 八尾では旧町「東新町」「西新町」「諏訪町」「上新町」「鏡町」「東町」「西町」「今町」「下新町」「天満町」「福島」の11の町にそれぞれおわら保存会が組織されていて、おわら風の盆はその支部ごとに日程を定めて行っている。
 私は二時間、かつては花街として賑わったという鏡町のおたや階段前で立ったままで踊りの進行を待った。途中、おりしも台風12号の雨が降って一面傘の花が咲き、開催が危ぶまれたものの、予定の時刻には幸いに雨も止みどうにか開催にこぎつけた。幽玄な、そして心に沁みる音色に満足した私であった。

2011年8月11日木曜日

悪夢の大震災から五ヶ月 陸前高田は今



 八月五日、私は悪夢覚めやらぬ岩手県陸前高田市を訪れた。その状況を今、原稿にして書き上げたばかりで、あさって織姫新聞に提出し、近々に掲載する予定。
 ご覧のブログでは特記的なことだけを書き、数枚の写真を掲載することにしたい。

 テレビで見てある程度は想定内のつもりだったが、峠を越えるあたりから次第に迫る高田市は想像を絶する悲惨なもので、これを一体どう表現したら良いのか戸惑った。というのも山積みにされた瓦礫もさることながら、大量の埃が白く細長く垂れ込めた雲に似て浮遊していたからだ。折からの海風でそれが徐々に山に向かって移動していた。この埃には臭いは全く感じられなかったが、おそらく大量の乾ききった瓦礫から発生したものだろう。このようにかって私が体験したことのない異様な光景が眼前に広がってきた。そしてここまで私が運転してきたレンタカーも一瞬のうちに白い粉をかぶった。

 高台にある仮設住宅に行って被災住民と話す機会を得、昨年9月26日に私が偶然に撮影した高田松原やJR陸前高田駅などの写真を差し上げ懇親を深めた。テーブルに並べられたそれら写真を見て涙する人もいた。駅舎は今、どこにあったのかも特定できてないし、松原は地盤沈下によって跡形もない。今になってみれば、私がその時、無意識に撮った写真がこれほど貴重なものとなり住民に喜んでもらえるなんて思ってもいなかったし実に皮肉なことだ。

 12月25日クリスマス。再度私はこの陸前高田を訪れ皆さんとお会いすることを約束して分かれた。今、東北各地は夏祭りだ。この陸前高田市も気仙町を中心にして「けんか七夕祭り」が開催されようとしている。4台の山車のうち3台が流失し、今後毎年1台づつ復活していこうとしている。祭りが被災住民の心を和らげ癒すことを切に願いたい。

 



2011年7月23日土曜日

楽しきかな バスの旅

 7月18日~20日 私は久々で観光バスの旅をした。
 日頃、飛行機、列車、船、レンタカーを使ったひとり旅が多い私が、今回はアクセスの悪い上高地、高山、白川郷、金沢、東尋坊、永平寺を訪ねるバスの旅に。阪急交通社企画による旅で、「一名様参加歓迎」の文字に惹かれたからだ。
 信州上田までの往復新幹線以外はすべて大型バスで、旅は快適そのもの。しかし、またしても雨男、台風男の面目躍如。大型台風の接近が気になる旅でもあった。結果的には二日目の東尋坊、金沢の夜に降られたくらいで、奇跡的に影響の少ない旅だった。一番気になった上高地などは、雨も降らずに時折、穂高山頂も見える幸運さだった。旅程も宿は金沢2泊で比較的ゆったりと組まれたもの。

 今が旬の万寿貝を探して金沢市内の居酒屋を数軒はしごした。この万寿貝、十年ほど前になろうか、やはりこの金沢駅構内の居酒屋で初めてお目にかかったもので、淡いピンクの線が特徴の美しい二枚貝。能登半島周辺から秋田方面の日本海で獲れるらしい。今、構内の居酒屋はない。
 二日目の夜、セントラルホテルのレストラン「彦星」でやっと対面できて嬉しくなった。志摩のヒオーギ貝同様に家に持ち帰った。ヒオーギ貝は、ちょうどホタテ貝を小ぶりにした、色が黄色や赤といった少し派手な貝だ。

 35年ぶりの上高地は、過日の大崩落事故から今は突貫工事で緊急避難的に片側通行になっていた。眼前の穂高は雲に覆われてはいたものの、時折、頂上まで見渡せた。梓川の流れとともに、日本にこれほどの桃源郷は他にはないのではなかろうか。私は何も考えず素晴らしい環境に魅入ってしまって、気付けば1時間ほどの「時」が過ぎていた。
 今回の旅で気付いたことは、どの観光地も中国、韓国からの団体が多かったこと。日本人は主としてディズニーランド型観光(造形美を重視)を好むが、彼らは大自然を愛でる自然派だ。そうしたすみ分けがなされたことは大変残念だ。日本人はもっともっと大自然を愛すべきだ。だって人間そのものが大自然の一部なのだから。特に将来を担う子どもには自然派になって欲しい。こうしたことが近年、日本人のあらゆる思考の中でも顕在化するようになってきた。

2011年7月6日水曜日

佐渡へ渡る


 佐渡カンゾウ 幾年夢見し 祖国の地
(北朝鮮の拉致により、一瞬のうちに幸せを打ち砕かれた蘇我ひとみさん親子、幾年祖国の地を夢見て泣いたことだろう。心情を思うと、こうしたことはもう二度と起こしてほしくない。この美しい地球は北朝鮮だけのものではないのだから。)
6月25日、40年ぶりに佐渡へ渡った。台風が朝鮮半島に向かったとはいえ、あいにくの雨。両津港からレンタカーで佐渡一番の景勝地外海府へ。先端の弾崎灯台は映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台にもなった。灯台から二ツ亀、大野亀を経て尖閣湾方面へ。途中、大雨で滝のように水が山から落ちてくるところもあった。結局、車を降りることなく相川から再び両津にもどった。
 夜はやっと雨も上がり、宿近くの居酒屋に。ここで客はたった一人、なじみ客のようだ。ただこの方の奏でるコカリナ(オカリナではない。木で造った楽器)はなかなかのもので、「ふるさと」演奏にしんみりした。来年の薪能の情報も送っていただけることになった。佐渡に流刑になった世阿弥により、雅な能が伝来して500年。次回は必ず見てみたい。佐渡~信州松本へ。いつもの「蔵佳」へ。

2011年6月3日金曜日

四国への旅

 四万十の 流れトレモロ 沈下橋

 5月23日、東京駅9番ホームを滑るように発車した寝台特急「サンライズ瀬戸」は、翌朝7時08分には四国坂出に。そこから特急「しまんと3号」に乗り継ぎ土佐中村へ。途中、大歩危・小歩危の新緑風景や数万年前の地層がむき出しの岩肌を鑑賞した。また、山間にあった川のよどみに一瞬、何らかの生物がポツンと水面に作った輪が次第に大きくなっていくのを見て、河童を連想した。

 よどむ淵 ひねもす釣りたや 出て来い河童

 中村の手前で遠くに長く伸びる砂浜が見え、陸前高田の高田松原を思い浮かべた。今回の震災できっと高田松原は無残な姿になってしまったことだろう。そう思うと、この平野海岸は九州佐賀の虹の松原とともに貴重な砂浜になった。今の日本にはこうしたダイナミックな砂浜はいくつあるのだろう。
 土佐中村からはレンタカーで四万十川を北上。以前、飛行機で宮崎に飛んだ際に眼下に見えた四万十川だ。この日は高瀬沈下橋と岩間沈下橋で車を降りて、滔々と流れる四万十川を存分に堪能した。
 この日は宇和島駅にあるホテルクレメント宇和島に宿泊したのだが、時間が早かったので宇和島城に登ってみた。天守から宇和海が遠望出来た。街中ではじゃこ天を二枚食べたが、いつ食べてもここ宇和島のじゃこ天は天下一品。その後今夜の居酒屋を探す。街中にちょうど京都の高瀬川のような雰囲気の川があり、その川に面した居酒屋に決めた。数種類の貝類をつまみの冷たいビールは格別。旅にはこれがあるから楽しい。
 翌朝は伊予大洲に出た。大洲城は肱川の中州にある大きな岩盤の上に建つこじんまりとした城で品格のある城だ。また、この町はNHK放映の「おはなはん」や、「男はつらいよ」のロケ地として知られる。

 松山ではじゃこ天ソバを食べた。その後路面電車で18分の道後温泉まで足を延ばす。
 また、次の今治では昼時ということもあり桟橋近くの食堂で、冷たいビールを一杯、実にのど越しが良かった。 つまみには時期はずれのおでん。でも美味しかった。
 今では四国今治と本州、広島県尾道とを結ぶ「しまなみ街道」が出来て住民には便利になったのであろうが、旅人にはやはり海の旅が似合う。この日は友浦港、木浦港、岩城港、佐島港、弓削港、生名港と寄港し、因島土生港へ。ここで約1時間の乗り継ぎ時間があったが、次の便で広島県三原港へ。三原の夜は行きつけの居酒屋で懇親を深めた。

2011年4月20日水曜日

旅人始動

  
  春の陽の 眩き午後に 妻逝きぬ

 二月四日立春の午後、妻は永遠の旅に発った。
その後、私は旅を自粛していたが、ここにきて再び始動。今回の旅は、丹後半島、京都、奈良の旅を選んだ。(4月15日~17日)
 丹後半島伊根漁師町は、まだ観光客もまばら、私は観光船で湾内を一周し海上から舟屋を見て回った。京都は東山二年坂、三年坂周辺、そして祇園巽橋周辺、続いて先斗町、四条河原町を散策。

 奈良は、甘樫の丘から春霞の大和三山を見て、石舞台、飛鳥寺、そして法隆寺、中宮寺を訪ねた。
法隆寺百済観音、中宮寺如意輪観世音と久々の対面を果たした。特に如意輪観世音(弥勒菩薩)はいつも癒される。 その後、東大寺戒壇院四天王を拝観し京都16時52分発ののぞみ38号にて帰宅した。
  みほとけの 唇ゆるむ 花うたげ
  功徳付与 色失えり 百済仏
 

2011年1月23日日曜日

 冬の旅 3(小樽・札幌・増毛への旅)

 1月20日 函館本線八雲駅付近で、降雪のためポイントが転換出来なくなり40分ほど止められた。そうしたことからこの日の目的地小樽には19時15分到着。
 小樽は雪で、ホームも除雪されてはいたものの完全ではなく滑りやすかった。他の駅とは違い、この駅はホーム支柱にランタンが取り付けられていて寒い時期ではあるが温もりを感じた。
 また、駅前は以前と違い全くと言って良いほど綺麗に変わっていた。宿泊先は運河前にあるH.ノルド小樽。チェックインを済ませ運河撮影をしレンガ横丁「こころ」で飲んだ。

    灯に染むる 小樽運河は 恋の色
    小樽運河 月煌々と 雪照らす
 
1月21日 特急スーパーカムイで深川で下車。留萌本線で留萌へ。ちょうど昼時で、留萌駅には駅ソバがあり助かった。近年、多くのJRの立ち食い駅ソバが無くなって寂しい。体の中から温まった。ここから乗り継いで目的の終着増毛駅に。これで約10年かかった私のJRどん詰まり駅踏破も終了した。
 夜はひとり札幌の居酒屋で燗酒にボタンエビ、ソイ、ウニを注文し祝った。
今回の旅は列車だけの旅だったが、初日が遅れの時間も入れて12時間、二日目が8時間、三日目が10時間と計30時間の長旅だった。疲れた旅であったことは言うまでもない。

   冬の花 腑仰の朝に 増毛発つ
   春待ちて 海鳥群れる 増毛浜
   時計台 雪踏みしめる 心地良き 

2011年1月19日水曜日

冬の旅 2(能登半島輪島への旅)

 1月13日9:14 ほくほく線に乗り換える。十日町を経由して日本海へ。この辺は日本有数の豪雪地帯で、かつて飯山線森宮野原駅付近での豪雪は記録的で駅にある標柱には7m85cmのJR最高積雪を表示している。
今日も一面銀世界。線路際の祠の屋根は積雪2mはあろうか。大雪がふっくらと純白の自然の芸術作品を創りだしている。この雪国ではすべてが無で自然に身を任せている。時折大地が割れ、一筋の無表情の川の流れが顔を出す。車窓に顔を付け食い入るように外を見る。一枚のガラスを通して外気が伝わり、そして窓がうっすらと曇った。

    冬の花 輪島の宵の 白き舞ひ
    赤き陽に 吐息が光る 輪島市

 輪島は想像に反して路上は雪が殆ど見られなかったが、夕闇が迫る頃、やはり降ってきた。今回の目的のひとつが、旧国鉄時代の輪島駅の駅名表示板を確認したかったこと。そこに「シベリア」の文字があったからだ。
 あった!ちゃんと保存してあって今の駅舎の裏手に、当時の気動車の大きなパネル写真、レールとともに残されていた。

   白き吐息 一期一会の加賀の女

 1月14日 金沢でレンタサイクルにて街に出ようと駅前を出た矢先、寒雷、そして大量の雹、瞬く間に路面は白くなりとても自転車を運転できる状態ではなくなった。やむなく駅の喫茶店で時間を潰すことに。
 そして13:13発 特急はくたか 駅を出て10分と経たないところで急停車。先方の踏み切りで自動車が立ち往生。20分止められた後発車したが、再度その先の踏み切りで今度は踏み切りの電気異常とのことで止められる。何とついてないことであった。結局越後湯沢には40分遅れで到着、新幹線接続も予定した列車の次になってしまった。

   十日町 雪のしかかり 廃墟なり

 次週20日からは北海道小樽、札幌、増毛に。