2010年12月25日土曜日

冬のたび① (信州安曇野・小諸)

 2010年最後の旅はやはり信州だ。今年は松本を基点に数度の旅をした。
安曇野から見るアルプスの山並みは雪こそまだ、あまり見られないものの冬特有の静かな佇まいを見せていた。レンタサイクル貸出しの店が冬季休業のため、久々に歩いて早春賦の犀川堤を歩き、更に「水色の時」道祖神から山々を仰いだ。
 夜は行きつけの松本女鳥羽川近くにある「蔵佳」でひとり忘年会。ここには拙著「日本讃歌」の冒頭の詩の扁額が飾られている。今年、両親が逝って特別な年だからひとり静かに飲みたかった。
 翌12月23日は篠ノ井線で、篠ノ井、そして小諸へ。この日、松本駅ホームで列車を待っていると8時30分丁度、心を揺さぶる大きな汽笛、そう、懐かしい蒸気機関車の汽笛が聴こえた。しかし、その姿はどこにもない。一瞬空耳か?違った、確かに数本の特急あずさに囲まれて、垂直に立ち上る白煙を確認出来た。まさしく蒸気機関車だった。嬉しかった。来年1月12日から能登輪島へ。20日からは北海道小樽、札幌、増毛へ。今、大雪らしい。読者諸兄、良い年をお迎え下さい。
     ※後日分ったことだが、松本駅での蒸気機関車と思われた汽笛は、蒸気には違いないが、
      時報で、8:30 12:00 1:00の3回鳴らしているらしい。それも明治の頃から。

2010年11月25日木曜日

酒田そして鳥海山麓牛渡川へ

 11月22日 新潟駅万代橋出口近くの富寿司でいつものように生ビール、そして寿司を食しその後特急いなほで酒田へ。途中、すでに稲の収穫を終えた数箇所の田園に、大陸からの白鳥の群れが長旅の疲れを癒していた。
 酒田は七度訪ねているものの、私はいつも鳥海山麓牛渡川や滝ノ浦地区など鳥海山の雪解け水が湧水となり地上に出て来る場所を選び訪ねていた。そんなこともあり今まで一度も酒田市内を見学したことのないある意味では異常な旅をしていた。
 しかし今回、ガイドを地元の阿部さんにお願いしこの街の素晴らしさを教えていただくことにした。ただ冬の日没が早いという時間的な制約から本間美術館と山王くらぶに絞ってみた。本間美術館は北前船での北国貿易、そして金融業で巨額の富を築き上げた本間家別邸として数多くの賓客をもてなして来た言わば迎賓館だ。
昭和天皇が皇太子の時に訪れている。現在西郷隆盛や副島種臣等、本間家が所蔵している書画を展示していた。次回酒田訪問時には本間家本邸や山居倉庫、日和山公園等を案内していただくことで阿部さんとは別れて行きつけの居酒屋「ゆた華」に移動し、地元のガサ海老に舌鼓を打った。
 翌23日は羽越線吹浦駅から徒歩20分のところにある牛渡川へ。そこで思いがけず興奮が待っていた。この牛渡川を訪れて7年になるが、今回初めて鮭の遡上を確認出来たのだ。

   鮭帰る 母なる川よ 牛渡り

 そもそも何の変哲もない長閑な田園の中にあるこの川に興味を持ったのは、以前NHKの番組の中で、この川に水中カメラを入れ海にいる筈のカレイが泳いでいたからだ。淡水に海の生物がなぜ?という疑問からであった。その後どうしても一度見て見たくて月日を重ねること7年が経過してしまった。いまだにカレイは確認出来ていないものの今回の旅はそれに変わる最高の感動を残した。

2010年11月14日日曜日

晩秋の諏訪へ

 11月12日 新宿発11:00あずさ13号で上諏訪へ。宿泊先の「鷺乃湯」に隣接する片倉館は敷地内の木々がすっかり色づき、この季節ならではの趣を見せていた。
この片倉館は、片倉財閥2代目社長片倉兼太郎が欧米視察旅行の際、これら諸外国が文化福祉施設充実を図っていたことに感化され、帰国後、諏訪の地にそうした市民が喜ぶ施設が出来ないものかと思案。1929年ついにヨーロッパ中世風のレトロな大浴場(千人風呂)が出来上がった。現在では観光客や市民の憩いの場になっている。
 
 広々とした諏訪湖は晩秋の日差しがすでに傾き、シベリアから多くの渡り鳥が飛来し羽を休めていた。
   雁が音の 響きや悲し 諏訪の湖
   諏訪の湖 水面蹴散らし 鳥立ちぬ

 翌日は諏訪大社へ。ここでは現在下社が改装中で、上社には七五三詣での着飾った多くの子どもたちが、父親のカメラの前で緊張気味にポーズを取っていた。
その後私は近くのオルゴール博物館「奏鳴館」で指導員のもと、オルゴールを作ったり時の科学館「儀象堂」で説明員の説明に耳を傾けたりした。特に私が60歳を過ぎて時間の経過、すなわち「時」の大切さに気付いていたのでこの儀象堂では妙に納得したりした。こうして雨にも降られず秋の一日を楽しく過ごすことが出来た。

2010年10月31日日曜日

下関、小倉、多久、唐津への旅

 10月25日、一年ぶりで馬関火の山に立つ。
 慶応2年秋、高杉晋作はこの馬関で自身の労咳と戦いながら14万の幕府軍を敵に、最後の気力を振り絞っていた。
         おもしろきこと ここにあり 馬関の秋
         東行の 心満たして 菊香る
         春風に 誘われ登る 日和山
 その結果、わずか四千の長州軍を率いた晋作が見事幕軍を打ち破り、以降、維新の歯車は一気呵成に新しい世に突き進むことになる。
 私は功山寺のわずか80名足らずの挙兵から始まり、この馬関戦争に至るまで、彼の一途に国を思いやる心情と並々ならぬ精神力に頭が下ると同時に胸が熱くなるのを禁じえない。以前、TVの収録で島田紳介氏に「あなたはまるで高杉晋作の生き写しだ」と言われたが、心底この東行高杉晋作に惚れこんでいる。晋作の書物を読めば読むほど心熱くなる。
 ※東行庵前の駐車場にある清風亭の餡ころ餅は旨い。

10月26日 佐賀の多久聖廟に3年ぶりで訪れた。
         早暁の 丹邱の里 花露満つ
 敷地内の広場には全国漢詩コンテストグランプリの碑が10基ほど整然と並ぶ。その中に亡き母の「鞆の浦観漁」の碑がある。生前「もう一度行ってみたいね」「大丈夫、連れて行くよ」と言っていたのに残念ながら亡き人となった母。私は今回の訪問はそうした母の遺影を背負っての旅となった。きっと母も喜んでくれてると思う。
 多久からは唐津線で唐津へ。以前列車から見た虹の松原の光景が美しく是非降り立ってみたいと思った場所。海に突き出した唐津城とあいまって美しい景観を織り成す。  この日のシメは小倉。今はJR九州を退社して旅行業と貿易商を営む友人に久々に会って懇談した。彼は翌日、厦門に旅立った。

10月27日 早朝の小倉城周辺を散策。150年前の馬関戦争時、一旦は火災にあった城。今は立派に復元され観光客誘致に一役買っている。市内の旦過市場は活気があり、ある鮮魚店の店頭で車海老一尾を剥いてもらい食べた。「こんなお客さん初めて」と言われた。
次にレトロな門司港散策。対岸の下関火の山が見える。思い入れの深いこれらの街を一通り見ての感無量の旅であった。

2010年10月19日火曜日

伊豆湯ヶ島の秋

   渓深き 湯ヶ島の宿 竹の春
   静けさや 伊豆湯ヶ島は 秋の声

 10月16日 久々に伊豆湯ヶ島の木太刀荘に泊まった。周囲ひっそりとした中にもせせらぎが心地良かった。紅葉には早かったが、竹林の葉の色や渓を渡る風のそよぎからは十分に秋の気配を感じることが出来た。
 この日は日中、河津七滝のうち大滝や初景滝などに行ってきた。河津七滝のバス停留所には関西から来たバス五台が着き、中から中高年の観光客が疲れた様子で降りて来た。ただそれ以外の客といったら数台のマイカーのみで土曜というのに心なしか観光地としては寂しかった。そうしたことを反映してか周囲の食堂、売店もほとんどが休業であった。こんなところにも今の日本経済の厳しさの一端を垣間見た思いだった。
 ※初夏に創作した句をせっかくだからご笑覧下さい。
      漆黒に 蛍火流る 伊豆の宿
      湯ヶ島の 渓えぐりたり 夏嵐

 

2010年9月27日月曜日

陸中海岸の旅

   俯瞰する 北山崎は 秋匂ふ  
9月25日台風の北上と偶然重なって私も進路を北へ。
目的地は陸中国立公園最良のビュー・スポット北山崎だ。三陸鉄道の田野畑駅から村営乗り合いタクシーで目的地へと向かう。乗り合いといってもこの日はあいにくの風雨のため、タクシーは私の専用となった。
 北山崎はまさに絶景。まだ紅葉こそしていないものの、周囲の草木、そして海の色もすでに秋を思わせた。夜は雨の宮古で、私の長年の鼻感?を頼りに探し当てた感じの良い居酒屋で英気を養った。主人は「三陸鉄道を勝手に応援する会」の宮古支部長だった。本部は盛岡にあるらしい。私は旅人、そして鉄道ファンでもあるので些少のカンパをして来た。
翌日は石川啄木がこよなく愛したという陸前高田の高田松原を2時間かけ(ローカルゆえ次の列車は3時間後)ゆったりと散策した。前日とは打って変わって夏のような日差しになったが、やはり吹き渡る潮風は秋だった。現に赤とんぼが群れていた。
 日本にはもうこうした白砂青松の海は数えるほど。悲しいことだ。私が生まれたのが瀬戸内海。大小様々な小島が点在し、多くが白砂青松でクマゼミがうるさいほど鳴いていたのを記憶している。そんな幼少の頃のことをぼんやりと思い浮かべていると、思いがけず私の前を近所の人だろうか、幼子を背負った女性が過ぎ去って行った。まるで映画のワンシーンのように思え、しばし余韻に浸った。今回の旅はそんな心に残る旅であった。

2010年8月31日火曜日

会津から越後、そして信州へ

   赤蜻蛉 阿多々羅の空 智恵子いろ
 今月三回目の旅は、JR只見線から飯山線、そしてしなの鉄道の小諸までの700kmの旅となった。八月だから紅葉にはほど遠いが、稲が色づき伸びたススキの穂が残り陽に照らされ銀色に輝き、その中を赤トンボが舞うなど季節は確実に秋に向かっているのが感じられた。
 前回の大井川、天竜川に続き、今回も只見川、魚野川、信濃川、千曲川といった日本有数の川に沿って走り、中でも只見線などは雪国らしく多くがトンネルだった。
思うに日本は急峻な山岳地帯が多く、そこを源とする多くの川が滔々と流れている。そこを縫うように走る鉄道は、明治以来国民生活に密接に関わって来たがもうそれも昔の話、現代社会は車社会となり鉄道の使命も限られてきた。
 大井川鉄道のSLの車内同様、只見線も車窓は開け放たれ、大地の匂いや風の心地よさ、レールの軋む音などが五感に響く。
 以下気付いた点を書き留める。
①新鶴駅付近に鉄道防雪林あり。雪国ならではだ。
②会津板下は春日八郎のふるさとで今では少なくなった駅前食堂、その彼方にかかった入道雲が夏を演出する。駅を出て数分、山間に二羽のメスの雉が。自然が一杯。
③本名駅手前には雪国の知恵、高い棟で赤い屋根の民家多し。また本名駅を出ると長いトンネル。猛暑がうそのように、まるでアイスボックスにでも入ったように体が冷え込む。
④土市駅には傘が用意されていて人への気遣い、優しさが感じられた。
⑤越後川口付近で見た信濃川にかかる夕陽は忘れ難い。
⑥JRのキャッチコピー:祈りの里会津、恵みの里会津。忘れていた時間に会える。
⑦小諸の寅さん会館は今月二度目で、私の創った詩、《人間讃歌・寅次郎の涙》をご笑覧いただきたく差し上げて来た。
   どうした
   そんなに悲しい顔をして
   フラれでもしたか
   ・・・
   そうか
   そんな時は 泣けばいい
   思いっきり泣けばいいさ

   そりゃ俺にだって 悲しい時はあるよ
   今頃 柴又にいる
   さくらや
   おいちゃん おばちゃん
   どうしてるかなって

   そんなこと考えていたら
   涙が止め処もなく出てきてよ
   せめて照れ隠しに
   あの白い雲に向かって
   叫ぶのよ
   『寅次郎のバカヤロー』ってな

   理由はどうあれ
   男が一度 家を飛び出したんだ
   二度と帰らねえぞって思っていても
   さくらや
   おいちゃん おばちゃんに優しくされるだろう
   そのたび ついつい長逗留しちゃってさ
   それがダメなことぐらい俺にも分かっているさ
   そこに俺の居場所がないってことも
   だけどどうしても独り立ち出来ない
   寅次郎がいるんだな

   そしていつも『お兄ちゃん早く帰っておいで』っていう
   さくらの優しい声が耳から離れない
   だから悲しくて涙が零れ落ちるのよ
   分かるかい この気持ち え!    

 今夏は猛暑、飲料水の売上が好調と聞く。中でも私の好きな「綾鷹」などは品切れが目立ち、家の近くのスーパーなどでは他のお茶はたくさんあっても綾鷹だけは品切れ状態。駅のベンディングマシーンも同様。だがこの旅行期間中は不自由しなかったので有り難かった。やはりこれが一番。
 

2010年8月19日木曜日

大井川鉄道SL満喫と天竜峡の旅

 山間に 汽笛が響く 夏笑ふ
8月17日大井川鉄道千頭までSLで旅をした。このSLは昭和20年代には東海道線、その後北海道千歳線、更にはタイ国有鉄道で走っていたように、ある意味では時代に翻弄された格好で、ついに最後の活躍の場を再び日本のこの大井川鉄道に見出した。
 機関車の横腹にはタイの文字でタイ国有鉄道と書かれており、近々旧国鉄使用時のものに代えるとのことであった。
 さて、大井川はかつては雨が降ると暴れ川となり、旅人が何日も足止めになる厄介な川であった。今日は真夏の太陽に照らされて穏やかな川に戻っていたが、水の色が独特のブルーでこれは硫酸銅を含んでいるからだという。また、大井川鉄道の起点駅の金谷、ここは古くは東海道五十三次の二十四番目の宿場町として賑わい、当時の街道を復活させた石畳の歩道がある。これは平成3年に地元住民600名によって「平成道普請」として430メートルの区間を復活させたもので往時が偲ばれる。駅から歩いてほんの数分の所にあるので是非立ち寄っていただきたい。
 私が千頭から金谷駅 に戻ってみると、時刻はすでに13時を回っていてJR金谷駅は朝の混雑が想像も出来なくなっていた。駅員は無人、売店もシャッターで閉ざされ弁当を期待していた私は昼飯抜きになった。こんな所にも経営の厳しさが実感出来た。

 仕方なく私はその後、列車を乗り継ぎ豊橋駅から飯田線に乗った。豊橋駅売店でやっと弁当を購入出来た。3両編成の電車は途中、三河槙原駅付近で眼下に透明な水が赤みを帯びた褐色の岩盤上をすべるように流れているのが確認出来た。そこには多くの子ども達が気持ち良さそうに水遊びをしていた。夏真っ盛りである。
 
 以前私は旧国鉄の車掌だったこともあり、列車に乗っていても車掌の一挙手一投足に心奪われるが、この日もワンマンカー車内を汗かきながら大奮闘の車掌さんを見て内心、ご苦労様と思っていたところ彼は私がカメラを座席に置いていたことに気付き「トンネルばかりで良い写真が撮れないでしょう」と言葉をかけてくれた。確かにこの天竜峡付近はトンネルも多いがまたシャッターチャンスも多い場所だ。制服からして特急の車掌さんだなと見ていたら、案の定彼は天竜峡駅で上り列車のワイドビュー伊那路4号で豊橋に帰るとのこと、やはり特急列車の車掌さんだった。
 書きついでにもう一件、この日は飯田に泊まって、翌日の岡谷行の車内でのこと。若い車掌さんだったが途中の辰野駅での7分間の停車中、私の目の前の車内トイレを開けて水洗便所の水の流れ状況などをチェックしていた。こうしたことは内規などで定められているのかは定かではないが、おそらく車掌さん独断のチェック行為だと推察した。
 車内点検とはいえ、今までそこまでチェックしているのを私はかつて見たことがない。逆に悪い例で、最近では発車2~3分前に搭乗する車掌や、駅や車内放送などでこれはチョットと思われるものがある。例えば、「7時50分発○○行」を「ななじ50分発」と放送する車掌、そして次の瞬間プロが作成した駅の放送で「しちじ50分発○○行」となっているのを確認するに至り、こうした些細なことかも知れないが統一されていないなという印象を持っている。だからこそ私は今回のこの車掌のトイレ点検、そして機敏な行動に大いに感動した次第。

2010年8月3日火曜日

シモツケコウホネ絶滅危機

 8月2日雨の中、東武日光線下小代駅からほど近いシモツケコウホネが咲く里へふたたび立った。立ったものの様子が一変していたので驚いた。田畑の区画整備事業のことは「シモツケコウホネと里を守る会」の会員だから当然知ってはいたものの、何しろこの時期なら相当数のコウホネの可憐な花が見られるところ水面から出た花は3本、水中に5本と数えるほどだった。雨で水量が多いこと、また全区画を見てないので総量は推測するしかないが、守る会の柴田さんの話では水の綺麗な証でもある梅花藻も今では流されてしまって無くなってしまったとのことだった。愕然とした。
 今後コウホネを守るために私たちは一体どうすれば良いのだろう。世界にここにしか確認されていない「シモツケコウホネ」。日本で唯一、国の特別史跡および特別天然記念物の二重の指定を受けた新種シモツケコウホネ。コウホネ自体は日本各地に生息するが何がそれらと違うか。まず茎の色、一般的には緑色だがここのコウホネは褐色。花は濃い黄色で花芯は山吹色だ。また、河ワカメと言われるように葉は常に水中にあり水上に出ることはない。色は褐色でちょうどワカメのようだ。今回この窮状をつぶさに見て、私は何とかすべく私なりに最大限努力してみたいと考えた。なぜならこのコウホネは私たち人間が生きるに際してのひとつの環境バロメーターだと考えているからだ。





周囲の環境は良い









2010年7月19日月曜日

父の死

 7月11日父が死んだ。1月の母の死に次ぎ今年2010年は私にとって忘れられない辛い年になった。高齢だからと覚悟はしていたものの亡くなると寂しい。母は86歳、父は91歳で私にとって忘れられない数々の親子の思い出を残してそれぞれの人生を全うした。
 父が70歳後半、あるいは80歳になってからであろうか、私に向かいポツリ、「人間が死ぬということはどういうことなのかな?きっと大木の幹が朽ちてある日ドスーンと倒れるようなことなんだろうな」 恐らく父はその頃から己の「死」を意識し始めていたのだろう。
 私もこの私のブログノ中でも再三「死」というものにスポットを当てて書いた。日々忙しくしているとそうしたことには無関係に時間が過ぎる。しかし私たちは常に「死」と向き合いながら己の人生を精一杯生きることが肝要ではなかろうか。最後に、私は父の死にあたり追悼の句を棺の中に納めた。これは死の数日前、病院に見舞った時の心境を詠んだものだ。
   
   老いた手を 触れれば涙込み上げし 
              今日の訪れ 如何とも難し

2010年6月15日火曜日

「人生」を考える

 「人生」とは人が生まれ、人が生きると書く。私はこのことを常に考え悩むことしばしばだ。
 今日6月1日、私は吉田松陰生誕180年「獄に咲く花」を見て来た。松陰が生きた150年前、遠い昔と言えばそう思えるし、まだたかだか150年前の実際の話だとも思えなくもない。しかし良く考えてみよう。この150年間で私たちの周辺は大きく変わった。
ひとつ取り上げると、通信・伝達手段。現代は電話、メール、ファックスと当時と比べ飛躍的に進歩し便利になった。また、逆に全く変わらぬものもある。それは”人の心”だ。どんなに社会が進歩しようが、この映画にあるように己の生き様、真心というものは変化のしようがない。「心」というものは人間に備わった最高の宝だと思っている。
 松陰が野山獄に2度投獄された計2年間、(1回目は安政元年、2回目は安政5年)囚人たちに大きな変化が見られた。それまで空虚な牢獄が。彼の純粋さと牢にいてまでのひたむきな向学心、そして彼の情熱が生きる希望を失った囚人たちの心に徐々に入り込んだのだ。生きるとは?の真の意味を囚人たちに考えさせるようになった。最初、囚人たちは「そんなことしてどうなる。俺たちはどうせ外界に出ることなく死ぬだけだ」と自棄気味だった。そんな中で「私が皆さんをこの牢獄から出られるように努力します。」とその後、彼の言葉どおりひとり、そしてまたひとりと獄を出ていった。明治の初めまでには全員が出獄した。
 今、生きたくても重い病気で何年も生きられない多くの人がいる。また、健康な人で悩み事を抱えて自殺願望の人もいる。人、様々だが私は与えられた人生を全うして欲しいと思うひとりだ。だって松陰安政の大獄連座で処刑、享年30歳。また、愛弟子高杉晋作27歳で病没と若くして無念のうちに他界した人達がいるのだから。

2010年5月18日火曜日

温泉三昧(尻焼温泉・花敷温泉・湯ノ平温泉・沢渡温泉)

 拙著『日本讃歌』の「大いなる大地の恵み温泉天国」の中でもご紹介したが、私たち日本人は本当に恵まれている。全国津々浦々温泉が湧き出ていて日々、その恩恵に浴しているからだ。私も栃木、福島、群馬周辺の温泉にはよく行く。中でも加仁湯温泉、北温泉、木賊温泉などが好きだ。
 一人旅が多い私が、今回は友人ふたりを加えて久々の温泉三昧。場所は群馬県の尻焼温泉、花敷温泉、湯ノ平温泉、沢渡温泉に行って来た。
「緑風」、辞書には初夏に青葉を吹き渡る風とある。まさに今、大地は緑風の中にある。全山、新緑が眩いばかり、その中に所によって山桜も散見された。私自身この季節が大好きだ。
 この地は四十年ほど前、訪ねてはいるもののその時は温泉には立ち寄らず、若山牧水の「枯野の旅」の碑文がある暮坂峠やその周辺の牧水が残した作品を散策して楽しんだのを記憶している。
   『枯野の旅』
 乾きたる
 落ち葉のなかに栗の実を
 湿りたる
 朽葉が下に橡の実を
 とりどりに
 拾ふともなく拾ひもちて
 今日は山路を越えて来ぬ

 長かりし けふの山路
 楽しかりし けふの山路
 残りたる紅葉は照りて
 餌に餓うる鷹もぞ啼きし
 上野の草津の湯より沢渡の湯に越ゆる路
 名も寂し暮坂峠

 野趣溢れる河原一面が温泉の尻焼温泉、浴場が古風な檜張りの浴槽の沢渡温泉「まるほん旅館」など本当に心地良い一日であった。次回は再び北海道函館へ。

2010年5月5日水曜日

マッサージで極楽

 ゴールデンウイークも残りわずか。すでに上りの各交通機関も混雑を極める。
そんな中、私は近くの大衆浴場「ゆけむり横丁」でマッサージにかかった。若い頃からマッサージで体の疲れを癒したが、自分の体のツボ(気持ちの良い部位)を揉み解してくれる整体士はなかなか見つからない。しかし今回やっとめぐり合えたような気がしている。「Mさん」これからもよろしく!

2010年4月26日月曜日

信州安曇野はまだ早春

 4月24日、早春賦の歌碑がある安曇野の信濃川の堤では、一陣の風に桜の花びらが宙に舞っていた。眼前には別名信濃富士の有明山や常念岳など北アルプスの峰々。また、遠くに多くの雪をいただいた白馬連峰が連なる。
 春本番の日本列島だが、ここ安曇野では風が冷たく、この早春賦の歌詞の「春は名のみの風の寒さや・・・」そのものの季節に感じられた。

     早春の 信濃の河原に 我ひとり
            母を偲びて  雪山仰ぐ

 先駆けて散策した大王わさび畑は、ほとんどが中国、韓国の人たちでその中に若干の欧米人が混じっていた。日本人の姿はまばらだった。過日行った北海道大沼公園周辺でもそうであったように近年、外国からの旅行客が目立つ。
そんなこともあってか「京都の賽銭箱、目立つ外国通貨」という記事を目にした。米国ドル、中国の人民元、韓国ウオン、欧州ユーロ、インドのルピー、インドネシアのルピア等の賽銭があり、ご利益があるのか外国人も日本の神様に様々なお願い事をしている姿を紹介していた。
 さて、松本は駅舎が新築完成していて旧駅舎の入口の柱に掛けられていた「松本駅」の表示板は、そのまま新駅舎に継承されていて嬉しかった。
街中も大きく変化していて街全体が実に綺麗になっていた。女鳥羽川にある「なわて通り」にあった映画館などは大きな立派なビルに変貌していた。中町通りなどはなまこ壁で統一された商店街となっていて循環バスも運行されていた。本当に魅力ある街づくりだ。我が出身地で小京都でもある足利市も、このような街づくりを参考に活気ある街にして欲しいものだ。
 夜の散策では大変味のある和風居酒屋を発見。旅はいつもこのような発見があるから楽しい。「蔵佳」という屋号で、土蔵を改築して太い木材が天井まで居ぬきになっていて落ち着いた雰囲気の店だ。また、1階奥の間の壁には懐かしい「信濃の国の歌」の掛け軸があった。忘れもしない40年ほど前、友人と木曽の妻籠宿、馬込宿を旅した時、中央線の上松駅ホームに流れていた曲だ。
この居酒屋の玄関脇には、北アルプスの雪解け水が何十年かけて地盤から湧き出た飲料水があった。
  さあ、次は5月16、17日、友人ふたりとの3人旅で温泉三昧!!
「尻焼」「湯の平」「沢渡」に。その日の宿は沢渡温泉のまるほん旅館。

2010年3月29日月曜日

庄内への旅

 3月21日朝9時前、私は酒田駅の待合室にいた。この日は生憎の強風のため羽越本線秋田行き、新潟行きいづれも不通になっていて陸羽西線だけがかろうじて運転されていた。私の乗る気動車は酒田駅ゼロ番線から、山々が黄砂でかすむ中を新庄に向け発車した。これほどの黄砂は経験したことがない。途中、最上川周辺は予想に反して雪が少なかった。普段ならこの辺は相当量の積雪地帯だ。
 昨夜、酒田の居酒屋で知り合った人はこの最上川の船頭さんだった。彼曰く、「最上川の舟下りは冬が一番」だそうだ。機会があったら私も是非、彼の案内で真冬の川下りを楽しみたいものだ。
 今回の旅の目的は、今回で五度目となる鳥海山麓の牛渡り川と滝之浦地区だ。牛渡り川は淡水にもかかわらず海に生息するカレイが泳ぐ川として以前NHKが放映していたが残念ながら私はまだ一度も出くわしたことがない。そして夏には清流の証でもある梅花藻が咲く。周囲は長閑な田園地帯になっている。また、滝之浦地区は海に面した細長い地域で、ここの住民は湧水の恩恵をうけている。飲料水は勿論のこと、野菜などを洗う炊事場がありそこは地区の主婦の懇親会場にもなっていて微笑ましい。
 そして東北の名山鳥海山は海に向かってどっしりと悠久の時を刻んでいる。中腹に「胴腹の滝」という突如土中から水を湧き出す所があり、以前行った時には多くの人がポリタンクを車から出してその水を汲んでいた。大自然の不思議をまざまざと見た思いだった。

2010年2月22日月曜日

長州は心のふるさと

 人生はよく「旅」に例えられる。
長い人生においての苦楽や多くの出会いが、ちょうど旅に出た時に遭遇する諸々の事象に置き換えられるからであろう。わが身を「旅」という非日常の中に置くことで、己をじっくりと見つめ直す良い機会にもなり得る。そして旅には楽しみを期待しての旅や心傷つき鬱積しているものを晴らしたいという旅など人様々だ。
 時たま私もふらっと旅に出るが、時には若山牧水の「幾山河越え去りゆかば寂しさの 果てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」や石川啄木の「ふるさとの 訛り懐かし停車場の 人ごみ中にそを聞きにゆく」といった感傷的な旅もする。
 私は昭和63年3月、23年間勤めた国鉄を退社した。国鉄が民営分割され新会社に移行する直前のことで、それまでの自分に対する褒美の意味合いもあり山陰の旅を計画した。
 津和野駅のホーム上でのこと、留置線に停留していたキハ(気動車)車両の下方の目立たない部分に「日本国有鉄道」の刻印があり、それを見ていたら急に涙がこみ上げてきたのを覚えている。不思議なものだ。見慣れてきた会社名、それが数日後には新会社になりそこにはもう自分はいないと思ったら言いようのない感慨が込み上げてきた。その後私は小京都の萩へ向った。今思えばそれが萩への初めての旅であった。その時は単に見知らぬ町への観光目的の旅であったのだが数年後、とあることがきっかけで長州萩出身の高杉晋作という快男児を知ることになり私の人生は大きく変わった。

 さて、昨日(2月21日)、栃木県下都賀郡壬生町にて、その萩から萩博物館の学芸員一坂太郎氏を招き講演会があった。演題「壬生剣客伝 幕末の風雲児高杉晋作が挑む」一坂氏は高杉晋作の研究者であると同時に自他共に認める晋作の大ファンでもある。ご子息に「晋作」と付けるほどだ。
 
 ところで万延元年(1860)8月、高杉晋作が江戸から常州(茨城)、野州(栃木)、上州(群馬)、信州、越前へと旅した時に記録した「試撃行日譜」。私も実際に日譜に沿って旅してみて気付いた点や疑問点また新たなる発見などを交通新聞と織姫新聞に掲載した。また、昨年たまたま入手した晋作直筆の書画「帰去来の辞」をもって12チャンネル開運!なんでも鑑定団に出演した。その後北海道や大阪の友人から驚きの電話をもらって今更ながらテレビの威力を痛感した。お宝は残念ながら贋作と診断。それでも2日間の取材(一日目は世田谷の松陰神社、二日目はスタジオ撮影)で竹原洋介が旅人として全国デビューしたことは意義深い。

 それはさて置き、高杉晋作もある意味では旅人であった。長州は防府、三田尻、長府、馬関(下関)、それに前述の関東遊歴、また、江戸、京都、福岡、長崎更には中国上海など。彼の文久年間(1861~1863)から元治、慶応初期の目覚しい活躍の舞台は主として長州だった。それも馬関(下関)である。しかしそんな晋作も病魔(肺結核)には勝てず慶応3年4月13日(命日は14日)帰らぬ人となった。近代国家日本を見ることなく時代を駆け抜けた情熱の若者。享年27歳。「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し 衆目駭然敢えて正視する者なし これ我が東行高杉君に非ずや・・・」と初代総理大臣で高杉晋作の弟分伊藤博文が顕章碑文で記したように一見破天荒、しかし時代を的確に読んだ男であった。そんな男に惚れ込んだ私である。

2010年2月1日月曜日

同級生春山君の死

 母を看取って数日後の1月24日、今度は友人で同級生でもある春山君が亡くなった。わずか2週間前、織姫新聞の林社長と3人で昼食を共にしたのでまさかの訃報だった。
 昼食後、私は彼の車で送ってもらったのだが、車中、彼がぽつりと、「今まで一生懸命働いたんだから、これからは楽しみごとに金を使おうと思う。どうせ金は墓の中には持って行けないんだからな」とつぶやいていた矢先のことだった。結局彼は事業を成功させたが、金を全く使わずに死んでしまった。
 それにしてもこれほど立て続けに私の周りで不幸が続くと茫然自失だ。
『人はなぜ生まれ 何のために生きるのか』を考えずにはいられない心境になる。 

母の死

 1月15日、母が死んだ。胃癌だった。
その日の朝、いつものように私が病院に見舞った時は会話もして特段変わった様子もなかったのだが・・・
午後の健診で具合が悪くなったのだろう。まさかその日のうちに帰らぬ人となるなど想像だにしなかった。
 母と子の絆、落ち着いた時にきっと、洪水のごとく思い起こされるのだろう。今はただ冥福を祈るのみ。