2010年6月15日火曜日

「人生」を考える

 「人生」とは人が生まれ、人が生きると書く。私はこのことを常に考え悩むことしばしばだ。
 今日6月1日、私は吉田松陰生誕180年「獄に咲く花」を見て来た。松陰が生きた150年前、遠い昔と言えばそう思えるし、まだたかだか150年前の実際の話だとも思えなくもない。しかし良く考えてみよう。この150年間で私たちの周辺は大きく変わった。
ひとつ取り上げると、通信・伝達手段。現代は電話、メール、ファックスと当時と比べ飛躍的に進歩し便利になった。また、逆に全く変わらぬものもある。それは”人の心”だ。どんなに社会が進歩しようが、この映画にあるように己の生き様、真心というものは変化のしようがない。「心」というものは人間に備わった最高の宝だと思っている。
 松陰が野山獄に2度投獄された計2年間、(1回目は安政元年、2回目は安政5年)囚人たちに大きな変化が見られた。それまで空虚な牢獄が。彼の純粋さと牢にいてまでのひたむきな向学心、そして彼の情熱が生きる希望を失った囚人たちの心に徐々に入り込んだのだ。生きるとは?の真の意味を囚人たちに考えさせるようになった。最初、囚人たちは「そんなことしてどうなる。俺たちはどうせ外界に出ることなく死ぬだけだ」と自棄気味だった。そんな中で「私が皆さんをこの牢獄から出られるように努力します。」とその後、彼の言葉どおりひとり、そしてまたひとりと獄を出ていった。明治の初めまでには全員が出獄した。
 今、生きたくても重い病気で何年も生きられない多くの人がいる。また、健康な人で悩み事を抱えて自殺願望の人もいる。人、様々だが私は与えられた人生を全うして欲しいと思うひとりだ。だって松陰安政の大獄連座で処刑、享年30歳。また、愛弟子高杉晋作27歳で病没と若くして無念のうちに他界した人達がいるのだから。