2008年12月7日日曜日

絶滅危惧種「シモツケコウホネ」咲く里へ(栃木県日光市小代)

 過日、念願叶い絶滅危惧種「シモツケコウホネ」の咲く里へ行って来た。
当然季節はずれなので花は見ることは出来なかったが「カワワカメ」と呼ばれるコウホネの葉は、その名のとおり褐色の、まるでワカメのような葉を水中に伸ばしていた。例年六月中旬、水面から直立した茎を10センチほど出し、その先端部に濃い黄色い花を咲かせる。(写真参照)
寿命一週間、花期は六月中旬から十月中旬まで約4ヶ月。その間次々と新しい花を付ける。その後コウホネは種を付け文字通り「河骨」となって水底に眠る。種は流れてしまうため目にする機会はほとんど無いという。今回、花を見られなかった代わりに、その種を保存会の柴田さんが手に取って見せて下さった。(写真参照)
 この小代地区は、圃場整備事業が進行中とのことで自然と人間社会の調和がどう保たれていくのかが今後の課題となる。
 何の変哲も無い田畑のわずか1メートルにも満たない用水路に自生しているコウホネ。それこそ気付かず通り過ぎてしまいそうだ。また、この用水路には沢蟹やホトケドジョウ、アカハライモリ、カワニナ、更には綺麗な水の証明ともいえるバイカモが夏、水中に白い可憐な花を付けるなど貴重な動植物が生息している。つい今しがた私の目の前を大きな雄の雉が田んぼの中を駆け去った。
 また、近くにはゆっくり野趣を堪能できる小来川温泉もあり環境は抜群。
昼に小代行川庵で食したソバは絶品で特にかき揚げ天の美味しかったことは記憶に残る。ここは旧加藤邸(わが国財界のリーダーで吉田内閣の経済最高顧問として活躍された加藤武男翁の邸宅)を日光市に寄贈したもので、屋敷内には近くの行川から引いた池があり、折りしも寒風に飛ばされた紅葉が色鮮やかに水面に浮遊していた。

2008年11月2日日曜日

講演記録

 過日、ケアハウスのお年寄り30人を前に、私が旅を通じて得た楽しい情報(白鳥や鮭にみる帰巣本能、日本近海で取れる珍しい貝の話、河童の話、武者の霊等)や「人間の幸福とは何んだろう」といった話まで、私の考えを交えて披露して来た。
 お年寄りたちは今の終の棲家としてのケアハウスでの生活を、日々平凡に、そして一体どんな思いで暮しているのであろうか。それは取りも直さずこれからの高齢化社会の縮図でもあろう。
 次は11月8日の三郷市の市民大学での講演になる。ここでは比較的精力的に日々をこなし、そして貪欲に学習意欲を見せている壮年、一部高齢者たちの集まりで、今まで我武者羅に働いて来て、ここに至って子供も独立してやっと時間的余裕の出来た人たちが多い。ここでも旅の話や、普段気付かない日本人の素晴らしさや誇れる日本文化などについて、特にテーマを与えて各自考えてもらうことを主眼に行うつもりだ。

温泉天国日本

 以前、銭湯の効用について『銭湯 究極の大衆文化』の中で紹介したが、古来、日本人は風呂好きで清潔感ある民族として世界に知られていた。これは日本という国土が四面環海、湿気が多いという点、加えて原始農耕民族として労働を終え一日の汗や疲れを取るという習慣から来たものと思われる。
 それはさて置き昨日、私は久々に近くの大衆浴場に行って来た。高齢化社会を実感させるように年配者が目に付いた。ここの湯は鉄分が多いため少々黒ずむ。
 日本各地の天然温泉の効能は様々で、その地下鉱脈から湧き出る成分の含有量によって決まる。温泉好きな私などは日本に生まれた幸せをいつも実感している。そして次はどこの天然温泉に行こうかと夢を巡らせている。

2008年9月14日日曜日

寅さんからのメッセージ

 過日、池袋駅の埼京線ホームのベンチの看板に、ふてくされたような寅次郎の大きな顔写真があり、「俺は毎日 おもしろおかしく生きてりゃ それでいい 人間だからさ」という第42作で使った台詞があった。今年は寅さん渥美清が亡くなって十二年になる。思えば隔世の感ありといったところ。
 取り上げたいのは、各作品で彼が長旅から帰って、唯一の落ち着き場所である柴又の団子や「とらや」での夕餉の団欒時、家族に語る言葉にはいつも含蓄があり、そこでは「人間の幸せ」について大変考えさせる台詞がある。人はなぜ生まれ、何のために生きるかという人間究極の問題を包含しているからだ。この池袋駅のホームの看板に見られるように「おもしろおかしく生きる」のが作品全48作品一貫して寅次郎の生き方、真骨頂だ。他人から見れば、これといった職を持たない実に勝手気ままな生き方だと思うが、背景に山田洋次監督がそうした大きなテーマを取り上げて暗に見るものにそれぞれ考えてもらおうといった意図を感じ取ることが出来る。
 さて、この「面白く生きる」というテーマでは、先人の高杉晋作も辞世で「おもしろき こともなき世を おもしろく・・・」と残している。確かに晋作が生きた天保、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応といったいわゆる幕末は混沌とした時代で、生きる上ではちっとも面白くない世であったかも知れない。しかし、そうした時代ではあっても、少なくも私には晋作という青年が、師である吉田松陰から授けられた死生観そして己の強い信念の赴くまま激動の世を疾風のごとく駆け抜けて行ったような気がしている。それは維新を前に新しい時代を確信し得えた二十八歳と八ヶ月であった。
 人それぞれ・・・ あなたの人生はいかがだろうか?互いにその時(死)まで悔いのない人生を送りたいものと思わずにはいられない。

2008年5月20日火曜日

寅さん映画からふるさと、そして人間の幸せを考える

 久々で柴又に行って来た。JR金町駅の隋道を抜けると目の前に京成金町駅の大きな駅名表示板が目に飛び込む。駅舎にはコーヒーショップなどがあり小奇麗だ。ここから片道百三十円、一つ目の駅が寅次郎のふるさと柴又の玄関口京成柴又駅だ。帝釈天の参道には多くの古き良き時代を髣髴とさせるみやげ物屋が 軒を連ねている。
 山田洋次監督がこの映画を手がけたのが昭和44年(1969)のこと。それから回を重ねて全四十八作、平成7年(1995)まで続いた。この「男はつらいよ」は時代とともに生き続けた、ある意味では時代の寵児的人気映画だ。寅さん、本名渥美清は翌平成8年(1996)8月4日に亡くなった。私はこの映画に日本の美しい自然と、人間の幸せとは何か?という人間が希求する大きなテーマを見たような気がしているので、ここで私が特に印象に残ったふたつのシナリオをご紹介したい。
第六作「純情篇」
さくら「お兄ちゃん、また、どこかに行っちゃうのね」
寅次郎「さくら、覚えているかい。俺が十六の歳に親父と喧嘩して家出したろ」
さくら「ああ微かににね。何んだかお兄ちゃんと別れるのが悲しくてどこまでも追っかけたんじゃない私」
寅次郎「そうよ、追っ払っても追っ払っても、お前、泣きべそかいてついて来るだろ。俺困っちゃった。でも、そこの改札口まで来たら諦めてよ、これ餞別よって、俺に渡して帰って行ったろ。電車に乗ってそれ開けて見たら真っ赤なおはじきが入ってやんの。俺さ笑っちゃったよ」
さくら「ね、お兄ちゃん、もう正月も近いんだから、せめてお正月までいたっていいじゃない」
寅次郎「そうもいかないよ。俺たちの稼業はよ。世間の人が炬燵にあたって、テレビを見ている時に、冷てえ風に吹かれて、鼻水たらして声をからして物を売らなくちゃならねえんだ。そこが渡世人の辛れえところよ。皆によろしくな。博と仲良くやるんだぞ」
=電車が到着し、寅次郎乗り込む=
寅次郎「じゃあな、さくら」(さくらが身につけていた真っ赤なマフラーを、寅次郎の首に巻きつけてやる)
さくら「あのね、お兄ちゃん、辛いことがあったらいつでも帰っておいでね」
寅次郎「そのことだけどよ、そんな考えだから俺、いつまでも一人前・・・」「故郷ってやつはよ、故郷ってやつはよ・・・」
さくら「ん、え、何、何んて言ったの?」
=電車の扉が閉まり寅次郎が電車の扉越しに何かを言ってるがさくらには聞こえないので聞き返す=
 ここで寅次郎(山田洋次監督)は何を言いたかったのだろう。寅次郎の気持ちを代弁するなら「故郷ってやつはよ、いつも俺を優しく迎えてくれるだろ、おいちゃんもおばちゃんも、そしてさくらも、だからついつい甘えて長逗留しちゃうんだよな。これじゃいけねえ、これじゃいけねえって思ってるんだけだ、どうしても大人になりきれねえのよ。こんなお兄ちゃんだけど、ごめんなさくら」とでも言いたかったのではなかろうか。
第八作「寅次郎恋歌」
 秋の夜長、備中高梁で連れ合いを亡くした博の父親との会話。
博の父親「寅次郎君は今、女房子供がいないから身軽でいいって言ったね。そう、あれはもう十年も昔のことだがね、信州安曇野という所に旅したことがある。バスに乗り遅れて、田舎道をひとりで歩いていたら、日が暮れて暗い夜道を心細く歩いていると、ポツンと一軒の農家があった。
りんどうの花が一杯に咲いていた。開けっ放しの縁側から、明かりのついた茶の間で、家族が食事をしているのが見える。まだ食事に来ない子供がいたのだろう。母親が大きな声でその子の名前を呼ぶのが聞こえる。今でもその情景をありありと思い起こすことが出来る。庭一面に咲いたりんどうの花、明々と明かりのついた茶の間、賑やかに食事をする家族たち。私はその時、それが本当の人間の生活というものじゃないかと、ふとそう思ったら急に涙が出てきた。
 人間は絶対ひとりでは生きていけない。さからっちゃいかん。人間は人間の運命にさからっちゃいかん。そして早く気がつかないと不幸な一生をおくることになる。わかるね、寅次郎君、わかるね」
寅次郎「よくわかります。よくわかります」
  これは博の父親と寅次郎の会話ではあったが、博の父親はごく最近、連れ合いを亡くしてしんみりと自分の姿とだぶらせていたのだ。子供たちが小さい頃、自分は書斎に閉じこもったままで、親身になって子供たちと触れ合うことがなかった。そのことへの反省の意味も含めて寅次郎に話したかったのではなかろうか。
  平凡な人間の営みの中にこそ本当の幸せがある。そして人間には人間の定められた生活がある。それに気付かなかった自分に悔いているのであろう。以上、考えさせられる会話であった。

2008年5月8日木曜日

初夏の一日、西山荘へ

 ゴールデンウイーク各交通機関、各幹線道路は例年どおり混雑を極める。五月五日「こどもの日」は常陸太田(JR水郡線)から程近い西山荘(水戸第二代藩主徳川光圀=黄門様が元禄4年~13年[1691~1700]に没するまで晩年を過ごした隠居所)に行って来た。
 行楽日にも関わらず車社会を実感せざるを得ないほど、私が乗車したJRの車両にはほんの数人しか乗っておらず、駅前の観光案内所の担当者の話でも来客はほとんどないとのこと。ただ、西山荘は駐車場に数十台が駐車していて、広い園内は年配の女性グループや、家族連れで混雑していた。入園料650円。目的の黄門様の住居は奥まった所にありひっそりとした佇まいで、茅葺屋根には珍しいことに、菖蒲の花が数本紫と白の花を付けていた。どこからか種が飛んで来たのだろうか。
 私たちの知る黄門様の日本漫遊は後の創作話であろう。ただ、当時江戸城への登城や駿府、日光参詣などの際の話に尾鰭がついたものなのか、また大日本史編纂の時、ある程度そうした実測が伴ったものか定かではない。
 この常陸太田周辺ではすでに田植えが始まっていて、水を張った田では蛙の鳴き声が響いていた。周囲緑一色だ。大地の躍動を感じさせるのもこの頃で、私の一番好きな季節だ。

2008年5月6日火曜日

春うらら!! 会津西街道

 4月29日、福島西インターチェンジから磐梯吾妻スカイライン、レイクラインを経て五色沼へ。
途中、吾妻小富士に登る。山頂は強風で恐る恐るお釜を覗く。また、湖見峠への車道両側は雪の壁(写真参照)が蜿蜒と続く。時折、春に目覚めたウグイスの声。
 五色沼湖沼群の森林では、ようやく訪れた春の大気に木々の躍動が感じ取れた。毘沙門沼の岸の草むらから這い出た一匹の蛇が、気持ち良さそうに湖面を浮遊していた。ゴールデンウイーク前半のこの日、多くの家族連れで賑わう。中には中国、韓国からの団体客も目に付いた。

 会津若松に一泊した翌30日、鶴ケ城園内を散策した。園内の茶室「麟閣」は、千利休の子少庵が利休亡き後、会津領主蒲生氏郷に保護されていた時に本丸内に建てられた茶室で心癒す佇まいだ。
また、そのすぐ裏手の火の見櫓付近には、作曲家土井晩翠がこの城壁を煌々と照らす月に感動して創った名曲「荒城の月」の碑がある。

 時は幕末、この鶴ケ城が象徴的な会津藩は、幕軍の中心的役割を担い多くの壮士を輩出した。隊列には四神、すなわち青龍、朱雀、白虎、玄武の名が付けられている。中でも年輪もいかない白虎隊の名は、その壮烈な最期の状況から聞く者の涙を誘う。
戊辰戦争は慶応4年(明治元年)王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦で、会津西街道は、その時、最後の将軍徳川慶喜を擁した彰義隊が、将軍が謹慎していた上野寛永寺のある上野の山から敗走し続けやっと辿り着いた悲しみの道だ。その後、庄内、長岡、新発田藩等を次々に巻き込んで最終的には北海道函館の五稜郭にて終結する。官軍の西郷隆盛や大村益次郎などが脚光を浴びる中、敗軍の将土方歳三や榎本武明の活躍は目立つことはない。

 さて、この会津西街道を車で南下した私の目に、芽吹いたばかりの木々のうっすらとした緑が心地良かった。山腹は野生のやまぶきの黄色い花が見事だ。途中、大内宿と塔のへつりに立ち寄った。大内宿は約60軒の茅葺屋根の家屋が整然と旧宿場町の風情を今に残す。今では観光客相手の土産物店となっている。高台から俯瞰する佇まいは壮観だ。また。塔のへつりは奇岩が迫る。大自然のエネルギーに脱帽すると同時に会津の早春を満喫した旅となった。

2008年3月22日土曜日

時代を見つめて幾星霜

 3月13日、久々にホテルメッツ田端に。ホテルのエントランスを入ると右手にレストランがある。このレストランからは東北・上越に向かう各新幹線をはじめ、山の手、京浜東北線、さらには高崎、宇都宮線の列車が手にとるように見られることから、鉄道ファンや子どもたちに人気の的だ。実はこのレストランの入り口付近の壁に、拙著「日本讃歌」の冒頭の詩が額入りで飾られている。
  
 二本のレールが駅構内で分岐し その先また二本になってどこまでも伸びる
 北は北海道 北緯45度の稚内から 南は31度の薩摩半島枕崎まで
 このレールがある限り 日本列島最果てへの思いは熱い  
 昭和四十年代の上野駅
 正月や盆の帰省時に 北への列車が入線するまでの数時間
 ホームで車座になり酒盛りが始まる
 久々に家族やわが子の話に 花咲かせる出稼ぎ労働者たち
 その訛りの心地良い響きが 今ではとても懐かしい
 駅  そこは多くの人が行き交い 出会いと別れが交錯する人生の縮図
 列島行く先々でも 日々人々の営みがあり 悲喜こもごもの人生がある
 そしてまるで何事もなかったかのように 今日も列車が定刻で運行される
 季節でいえば 春  桜前線が北上し五月上旬 やっと北海道に到達する頃
 南の九州では早や眩い初夏を迎える  冬 北海道大雪山系に初雪が降る頃
 本州以西では 木々が近づく冬を予感しながら 最後の輝きを見せる
 いと麗しき日本 そんな日本に生まれた幸せを噛み締めながら
 今日もまた 時刻表を片手に旅に出る
 忘れかけていた何か大切なものを求めて

 この詩は、昭和四十年代に旧国鉄の非現業部門に勤務していた私が、盆と暮れの輸送に際し、上野駅への助勤で目にした光景を詠んだもの。また、日本の四季の移ろいをその象徴的な「桜前線」と「紅葉前線」を列車で追って旅することをイメージし表現している。
 ところで、2008年3月14日をもって、高度経済成長を支えてきたブルートレインのうち、九州へ向かう特急「はやぶさ」(熊本行)・「富士」(大分行)と大阪発札幌行き「トワイライト エクスプレス」を除き引退し六十年の歴史にピリオドを打った。今回引退した急行「銀河」(大阪行)を、私はかつて数々のブルートレインが発着した東京駅10番ホームで見送った。
 ここですでに平成17年2月末に引退した特急「さくら」を取材した時の記事があるので併せてご紹介して読者に「旅情」を味わっていただこう。

 『時代を見つめて幾星霜』
(東京駅10番ホームと有楽町ガード下 「サラリーマン倶楽部」)
 平成17年4月8日 付 織姫新聞「竹原洋介旅便り」より
 時はすでに平成17年。元年生まれの人が既に思春期を迎える。戦後間もなく生まれた私など団塊の世代にとって、周囲で目に付く殆どの事象が、どうしても過去との対比になってしまうことは否めない。
 さて、2月末日をもって長きにわたって親しまれてきた寝台特急「あさかぜ」(下関行)と「さくら」(長崎行)が、ともに五十年の歴史に幕を閉じた。
 当日の東京駅10番ホームには、最後の雄姿をひと目見ようと、カメラを抱えた鉄道ファンや、過去に乗車された方だろうか年配の方もいて、ともに別れを惜しんでいた。客車の塗色が「青」だったことからブルートレインの愛称で親しまれてきた。併せてここ10番ホームは、「富士」「はやぶさ」「出雲」など他のブルートレインの発着番線でもあることから、「ブルトレホーム」として人気を博した。
 駅、そこは多くの人が行き交い出会いと別れが交錯する人生の縮図。そうした光景を私は何度となくここ東京駅10番ホームで見てきた。そういう意味では、昭和を見つめてきた重みあるホームということが出来よう。私とこれらブルートレインの思いでも尽きない。中でも「あさかぜ」は、母の実家が瀬戸内の糸崎(当時機関区があった)こともあり学生の頃はよく使っていた。また、「さくら」も数回乗車した記憶がある。新しいところでは三年前、長崎本線有明湾を望む里信号場。私の乗ったJR九州ご自慢の「白いかもめ」長崎行が交換待ちしていると、夕闇迫る湾のカーブの彼方から、窓に赤々と灯をともした長大編成の列車が近づいて来た。それが「さくら」だった。東京駅には翌朝11時33分着。あの時の旅情溢れる光景も今ではとても懐かしい。
 現在、東京駅10番ホーム発着で、機関車に牽引された寝台特急は「富士」大分行、「はやぶさ」熊本行、「出雲」出雲市行の三本だけになってしまった。こうした時代の変化は新幹線網の充実や、空の便の手軽さから時代の趨勢としては理解出来るものの、旅に旅情を見出す私など旅人にしてみれば一抹の寂しさを覚える。
 旅情を歌にした春日八郎の「赤いランプの終列車」が一斉を風靡したのが昭和三十年代前半。その哀愁を帯びたメロディが世のおじさんたちにとって実に心地良い響きだった。
そうした夜行寝台列車が毎夜、滑るように東京駅10番ホームを発車する。そして構内の分岐器と車輪のきしむ音を残しながら徐々にスピードを上げていく。まさにそこが有楽町の高架上で、そのガード下には戦後からある居酒屋がしのぎを削っている。私は以前に職場が丸の内にあったことから、仕事帰りに仲間とよく飲みに行ったものだ。当時後輩に「先輩、今晩はどちら方面に飲みに行かれるんですか?」などと皮肉たっぷりに尋ねられて、「今晩は銀座の高級クラブ・ブルースカイだよ」「女の子が選り取りみどりだぞ」なんて冗談を言ったものだ。
確かにガード下とはいっても露天に等しく、そこを通行する女性も多数。表現は決して違ってはいない。以来、私は有楽町ガード下を「サラリーマン倶楽部」と名付け足繁く通った。ヤキトリを焼く煙が濛々と立ち込めるサラリーマンのオアシス。情報交換や悩み事相談、意志疎通の場でもあった。
 近隣のハイカラ(ハイセンスで小奇麗)な銀座とは打って変わりここガード下は、我々サラリーマンにとっては最高の癒し場所だった。東京の多くの飲んべえ横丁がそうであるように、戦後の復興から始まり常にその時代を見つめてきた。当初は浮浪者が住み着かないようにと行政がテコ入れした経緯もあったとか、現在の経営者は親子代々の店が多いようだ。昭和四十年代の高度経済成長期のあの鰻上りの賃金上昇も手伝って、いわゆる″企業戦士″の溜まり場として隆盛を極めてきた時代の寵児的存在だった。最近では外国向けのガイドブックに載っているのか、はたまた口コミからか外国人客も目に付く。またこの界隈は来店客にマスコミ各社のインタビューなども時々行われる。実際私もインタビューを受けた経験がある。それを偶然親戚筋が見ていて、元気な姿がそのまま実家の両親に伝えられた。
 こうした時代の浮沈や数々の人間模様を見続けてきたガード下「サラリーマン倶楽部」だが、最近は居酒屋の大型チェーン化などに押し流されて、苦しい経営を余儀なくされている。近年のサラリーマン事情は、仕事上がりに飲んで帰ることが少なくなり、また、以前のようにお金を落としてはくれないという。こうした居酒屋事情の変化も低迷に拍車をかけている。ともあれ、かつての隆盛を極めた飲んべえ横丁を知っている私たち団塊の世代にとっては、これまた寂しい限りである。当時、今の日本は我々が支えているんだと自負していた。だからこそ街角には仕事上がりにチョット一杯やって、明日への活力にするといっては意気高揚していた多くのサラリーマンの姿があった。あの活気ある日本は今やいずこ。頑張れサラリーマン諸子。

2008年3月5日水曜日

伊豆は冬と春が同居?

2月26日伊豆に。
 伊豆は小学校の頃から何度となく行っているが、今回は初めてとなる中伊豆の旅だった。伊豆は気候温暖で特に春の海など、それこそ「春の海 ひねもすのたり のたりかな」そのままだ。それまでの私は、友人に「伊豆に行くなら何といっても海が素晴らしい西伊豆だ」と勧めていたが、今回の旅で中伊豆もなかなかのもの、特に湯ヶ島の宿「木太刀荘」は世古渓谷を見事に借景にしていて旅人の心を癒してくれる。大浴場のほか、大きなたらい?のような浴槽の風呂場や洞窟風呂、家族風呂など湯好きな私も大満足。変わった所では自然を大切にしているという点、朝、食堂の外、ちょうど私が見える位置に野鳥が何度も飛んでくるので良く見たら巣箱が設置してあった。自然と共生しているということだろう。いつの日か、僭越ではあるが川端康成や井上靖のように小説を書く機会があったら是非この「木太刀荘」でペンを執りたい。

 さて、のっけから宿の宣伝マンになってしまったが、宿に入るまでの数時間は散策を試みた。バスで河津七滝のひとつ大滝(おおだる)を訪ねた。日当たり少ない周囲鬱蒼とした林の中にそれはある。この時期としては水量が豊富で実に絵になる。また、大滝に降りる途中に子宝の湯があった。昨今、少子高齢化だ。是非あやかってほしい。余談はさておき、入り口付近に河津桜が濃いピンクの花びらをつけていて一足先に春の到来を告げていた。
 その後、再度バスに乗り水生地下で下車し川端康成文学碑を経て天城随道(旧天城トンネル)まで、みぞれまじりになった山道を残雪を踏みしめながら登った。先の河津桜を見てからのこの雪道だ。伊豆はめまぐるしく冬と春が同居しているように思えた。

 翌日は素晴らしい晴天で、列車が修善寺を出るとすぐに雪をいただいた秀峰富士が現れた。周囲の山々には雪は見当たらなかったが、富士だけが麓近くまで雪に覆われていてさすが日本最高峰だと感心した。
 この日の次なる目的地は三島の柿田川。数年前にも訪ねたことがある。10年から20年を経て富士の雪解け水がここ柿田川付近で地表に湧き出る。地下からボコツ、ボコツと湧き出るのが肉眼でも確認出来た。ここの湧水は、1964年に日量140万トンあったものが、1993年には100万トンに減少している。主な原因として、富士山東山麓に進出した企業による地下水の汲み上げ、また、ゴルフ場、宅地開発などによる雨水の地下浸透量減少が考えられるという。このままでは湧水量が減るばかりでなく、狩野川を経由して駿河湾に 注ぎ魚介類を育ててきた「命の水」が、その役目を果たさなくなる日到来も現実味を帯びてくる。
 さて、ここ柿田川周辺には貴重な動植物が生息している。清涼な川の証でもある有名なミシマバイカモ(初夏に淡黄色の花をつける)をはじめ、アオハダトンボ、アユカケ(俗にカマキリと呼ばれるが川底をはうように動き、えらぶたの上部にあるトゲでアユなどを捕らえ食べるカジカの仲間)など。また、柿田川は数百メートル先で伊豆の狩野川に注いでいるが、合流地点の水の色が雲泥の差で柿田川の透明性が証明される。以前、私は新聞誌上でオイル(石油)に次ぎ、今後は水が紛争の火種になるとアジアの水資源を例に警鐘を鳴らした。そして国内では郡上八幡を皮切りに、旧中山道の奈良井宿、安曇野、久留里、そして鳥海山を遠望出来る牛渡り川まで、水資源を題材に旅をし、「竹原洋介旅便り」(織姫新聞)でご案内してきた。さらに柿田川については、拙著『日本讃歌』の(大いなる大地の恵み・伏流水)の章でも書いた。昨今、地球規模での環境破壊が顕著になり様々な分野で叫ばれる中、こうした問題は他人事では済まされない。そういう意味でも今夏、日本で開催される北海道洞爺湖サミットが注目されるところだ。
   河津桜の濃いピンクが
   ひと足先に 春の到来を告げている
   一方 随道に向うなだらかな登り坂には
   いまだ多くの雪が残る
   かつて踊り子が通ったであろう
   この九十九折りも
   今はひっそりと時を刻んでいる
   そして かじかんだ手に
   息を吹きかけながら 
   私はひとり 峠を越えた
   雪の上に
   しっかりとした足跡を残しながら

再び 九州へ!

 2月22日、4カ月ぶりで福岡空港に立つ。今回の旅の目的は、大宰府天満宮境内にある延寿王院、玄海灘姫島、福岡市博物館にある国宝の金印。
 まず、延寿王院。文久3年(1863)8月18日の堺町御門の政変(長州対会津・薩摩の葛藤で長州の堺町御門警衛が御免になった)以降、都を追われた七卿のうち三条実美、三条西季知、東久世道禧、四条隆謌、壬生基修の五卿が、慶応元年(1865)1月4日、功山寺を発し外浜(下関市中之町)より渡海し筑前へ。、その後、ここ大宰府に滞留し、西郷隆盛や高杉晋作、坂本竜馬などと談議を重ねた場所だ。
 ここに現存する高杉晋作の書簡(妻雅からの手紙の裏に返書を書いた)をこの目で見たかったからだ。過日、私は九州小倉で売りに出されていた高杉晋作が書いたとされる掛け軸を購入したばかりで、彼の筆跡を直に確認しその真贋を確かめたかった。当初、どうせ贋作と思いつつあまり期待をしていなかったが、その後、彼が書いたとされる各種書簡の筆跡と照合した結果、私なりに購入の掛け軸はまさしく彼が書いたものと断定している。現在「何でも鑑定団」に真贋鑑定を依頼中。
 ところがどうしたものか、私の失念(事前に調べておいたメモを自宅に忘れた)で延寿王院でなく近隣の光明寺に行ってしまった。その後、時間が無く後髪を引かれる思いでバスに乗り湯布岳の下を通って別府へ。別府の街が見えた頃、いく筋もの噴煙が確認出来た。さすが湯の街だと感心しきり。私は数年前、四国の八幡浜からこの別府にフェリーで来たことがある。その時はここから」列車で鹿児島に直行している。
 ところで、金曜日にもかかわらず別府の街はひっそりとしていて、夜の繁華街も人影もまばらだった。宿泊した清風荘の私の部屋からは別府湾が眼前に一望出来て、朝、部屋の窓を開けると海鳥が餌をもらえると思ってか差し出す手元まで飛んでくる。観光用としては面白い経験だったが、自然界と人間が、こんな関係で良いものか考えさせられた。
 さて、午後再度博多に戻り、JR筑肥線で筑前深江付近にさしかかる頃、玄界灘洋上に姫島が見えて来た。この島は、勤皇歌人の野村望東尼が元治元年(1864)11月、俗論党に追われて九州にやって来た高杉晋作を、十日間ほど匿いその罪で遠島された場所だ。しかしその後、遠島を知った晋作は手配のものを使って馬関(下関)に奪還している。この行動が「義」に厚い彼の一面を知る上で大変興味深い。わずか十日間の滞在とはいえよほど恩義に感じたのだろう。縁とは不思議なもので、その後、望東尼は晋作の最後の瞬間を看取っている。


 次に、前回(11月4日)見られなかった国宝の金印。この金印は福岡市博物館に現存する。天明4年(1784)福岡から程近い志賀島で発見された。小さいが室内の照明で、「漢委奴国王」と刻まれているのが確認出来る。わずか二センチ四方で取っ手にはとぐろを巻いた蛇の彫刻が施されている。素晴らしいのひと言でここに来た甲斐があった。
 今回の旅は、このように駆け足だったものの実に満足したものとなった。


  眼前 遥か洋上に 孤島姫島を見る
  悲しみの島 姫島
  慶応元年十一月 六十歳の老いた尼が
  寒風吹きすさぶ牢獄で
  御国を思いて涙した島 姫島
  尼の名は望東禅尼
  そんな尼を 天は見捨てることはなかった
  忠・孝・義厚いひとりの若者が
  彼女を奪還する
  時に慶応二年九月十六日
  その若者の名は東行高杉晋作
  それは運命か
  尼はこの若者の早すぎる死を看取る

     面白き こともなき世を おもしろく
          すみなすものは 心なりけり

2008年1月11日金曜日

春の訪れ北帰行


 千葉県印旛郡本埜村。この地が全国的に知られるようになったのはつい最近。NHKで放映された白鳥の飛来地としてだ。極寒の北極海から越冬のために飛来する白鳥は、南は九州に至るまで全国々浦々に及ぶ。
 しかし、ここ本埜村はその飛来数で他を圧倒しピーク時には八百羽を超える。昨年10月13日に飛来してその後数を増やした。現在、八百四十羽だという。この地が他の飛来地と違っているのは、白鳥のためにこの時期だけ作られた一町歩の水田にひしめいていることだ。しかし、今回私が訪れた1月10日は少々様子が異なっていた。お目当ての白鳥は数羽しか見当たらず、同じ渡り鳥の鴨が数百羽賑わっていたからだ。この地で餌付けをしている出山さんの話によると、白鳥は鴨に追い出されるように、ここから数キロ先の自然の餌が豊富な田に出張?しているとのこと。

 いつものように出山さんが幼稚園児に白鳥の話をしていて、終えるのを見届けると私は出山さんの車に便乗させていただきその白鳥がいるという田に案内してもらった。すると、いることいることその数は数百羽。
 しかし、この白鳥たちもあと二ヶ月もすると再び旅立つ。その頃になると食が細くなるからその仕草で早晩飛び立つことが分かるらしい。そして春一番が吹くと時を同じくして、その南風を追い風に飛び立って行く。いかに本能とはいえ私たち人間は、そうした鳥たちの習性から春の到来を予感する。
 この本埜村に 初めて白鳥が飛来したのが平成四年。この時わずか六羽だったがその後、倍々ゲームで増え続けてきた。
 今は亡き出山翁が、手塩にかけてわが子のように愛情を注いできた産物だ。今ではご子息の輝夫氏と地元の「白鳥を守る会」の方々に見守られながら、親から子へ、そして孫へと大自然の摂理に従って、まるで精緻な計器でも内臓しているかのように毎年この地にやって来る。
 「本当に可愛い子供たちですよ」と、指定保護鳥に目を細める輝夫氏。彼は白鳥から多くの事を学んだという。当初、自然界で育った白鳥に餌付けをすることが、本当に彼らのためになるのかという素朴な疑問があって、地元でも根強い反対意見があった。しかし、全地球規模で環境破壊が進む中、今ではそうした人たちも最大限の協力を惜しまなくなったという。

 「大変悲しいことですが、自然界で育った動物にも餌付けをしなければならないような地球環境になってしまった。壊すのは簡単ですが、取り戻すのは容易ではない。その点まだここ本埜村に、人と鳥との共生の場があることに私は誇りを持っています」と感想を漏らしたのが印象的だった。
 「白鳥を守る会」の方の話によると、朝7時と夕方4時の餌付け時間がくると、白鳥たちは一斉に、餌を運んでくれる輝夫氏宅の方角に首を向けて鳴いたり、また、真夜中に仲間が数千キロの彼方から飛来するのを察知してか、北の空に向かって合唱するという。これらは学術的には到底説明のつかない摩訶不思議な習性だ。こうして見ると鮭の遡上などもそうだが、まだまだ自然界には学術的に説明困難なものが多い。
 さて、このように自然保護に取り組んでおられる方々だが悩みの種がある。一部訪問者のマナーの悪さだ。犬や猫同伴の者や、夜間ヘッドライトを点けたままの見学者など、警戒心の強い白鳥だからこそ最大限の注意をはらって欲しいという。
 この本埜村にいつまで白鳥が飛来し続けるか知る由もないが、それは取りも直さず私たち人間が暮らしていけるかどうかのバロメーターであることを肝に銘じたい。
  そうした観点から今後、次代を担う若者たちがこれら実態を見て、動物たちの生態系や地球環境保全に、少しでも興味を持ってくれればと願わずにはいられない。それはともあれ春は目前だ。