2008年3月22日土曜日

時代を見つめて幾星霜

 3月13日、久々にホテルメッツ田端に。ホテルのエントランスを入ると右手にレストランがある。このレストランからは東北・上越に向かう各新幹線をはじめ、山の手、京浜東北線、さらには高崎、宇都宮線の列車が手にとるように見られることから、鉄道ファンや子どもたちに人気の的だ。実はこのレストランの入り口付近の壁に、拙著「日本讃歌」の冒頭の詩が額入りで飾られている。
  
 二本のレールが駅構内で分岐し その先また二本になってどこまでも伸びる
 北は北海道 北緯45度の稚内から 南は31度の薩摩半島枕崎まで
 このレールがある限り 日本列島最果てへの思いは熱い  
 昭和四十年代の上野駅
 正月や盆の帰省時に 北への列車が入線するまでの数時間
 ホームで車座になり酒盛りが始まる
 久々に家族やわが子の話に 花咲かせる出稼ぎ労働者たち
 その訛りの心地良い響きが 今ではとても懐かしい
 駅  そこは多くの人が行き交い 出会いと別れが交錯する人生の縮図
 列島行く先々でも 日々人々の営みがあり 悲喜こもごもの人生がある
 そしてまるで何事もなかったかのように 今日も列車が定刻で運行される
 季節でいえば 春  桜前線が北上し五月上旬 やっと北海道に到達する頃
 南の九州では早や眩い初夏を迎える  冬 北海道大雪山系に初雪が降る頃
 本州以西では 木々が近づく冬を予感しながら 最後の輝きを見せる
 いと麗しき日本 そんな日本に生まれた幸せを噛み締めながら
 今日もまた 時刻表を片手に旅に出る
 忘れかけていた何か大切なものを求めて

 この詩は、昭和四十年代に旧国鉄の非現業部門に勤務していた私が、盆と暮れの輸送に際し、上野駅への助勤で目にした光景を詠んだもの。また、日本の四季の移ろいをその象徴的な「桜前線」と「紅葉前線」を列車で追って旅することをイメージし表現している。
 ところで、2008年3月14日をもって、高度経済成長を支えてきたブルートレインのうち、九州へ向かう特急「はやぶさ」(熊本行)・「富士」(大分行)と大阪発札幌行き「トワイライト エクスプレス」を除き引退し六十年の歴史にピリオドを打った。今回引退した急行「銀河」(大阪行)を、私はかつて数々のブルートレインが発着した東京駅10番ホームで見送った。
 ここですでに平成17年2月末に引退した特急「さくら」を取材した時の記事があるので併せてご紹介して読者に「旅情」を味わっていただこう。

 『時代を見つめて幾星霜』
(東京駅10番ホームと有楽町ガード下 「サラリーマン倶楽部」)
 平成17年4月8日 付 織姫新聞「竹原洋介旅便り」より
 時はすでに平成17年。元年生まれの人が既に思春期を迎える。戦後間もなく生まれた私など団塊の世代にとって、周囲で目に付く殆どの事象が、どうしても過去との対比になってしまうことは否めない。
 さて、2月末日をもって長きにわたって親しまれてきた寝台特急「あさかぜ」(下関行)と「さくら」(長崎行)が、ともに五十年の歴史に幕を閉じた。
 当日の東京駅10番ホームには、最後の雄姿をひと目見ようと、カメラを抱えた鉄道ファンや、過去に乗車された方だろうか年配の方もいて、ともに別れを惜しんでいた。客車の塗色が「青」だったことからブルートレインの愛称で親しまれてきた。併せてここ10番ホームは、「富士」「はやぶさ」「出雲」など他のブルートレインの発着番線でもあることから、「ブルトレホーム」として人気を博した。
 駅、そこは多くの人が行き交い出会いと別れが交錯する人生の縮図。そうした光景を私は何度となくここ東京駅10番ホームで見てきた。そういう意味では、昭和を見つめてきた重みあるホームということが出来よう。私とこれらブルートレインの思いでも尽きない。中でも「あさかぜ」は、母の実家が瀬戸内の糸崎(当時機関区があった)こともあり学生の頃はよく使っていた。また、「さくら」も数回乗車した記憶がある。新しいところでは三年前、長崎本線有明湾を望む里信号場。私の乗ったJR九州ご自慢の「白いかもめ」長崎行が交換待ちしていると、夕闇迫る湾のカーブの彼方から、窓に赤々と灯をともした長大編成の列車が近づいて来た。それが「さくら」だった。東京駅には翌朝11時33分着。あの時の旅情溢れる光景も今ではとても懐かしい。
 現在、東京駅10番ホーム発着で、機関車に牽引された寝台特急は「富士」大分行、「はやぶさ」熊本行、「出雲」出雲市行の三本だけになってしまった。こうした時代の変化は新幹線網の充実や、空の便の手軽さから時代の趨勢としては理解出来るものの、旅に旅情を見出す私など旅人にしてみれば一抹の寂しさを覚える。
 旅情を歌にした春日八郎の「赤いランプの終列車」が一斉を風靡したのが昭和三十年代前半。その哀愁を帯びたメロディが世のおじさんたちにとって実に心地良い響きだった。
そうした夜行寝台列車が毎夜、滑るように東京駅10番ホームを発車する。そして構内の分岐器と車輪のきしむ音を残しながら徐々にスピードを上げていく。まさにそこが有楽町の高架上で、そのガード下には戦後からある居酒屋がしのぎを削っている。私は以前に職場が丸の内にあったことから、仕事帰りに仲間とよく飲みに行ったものだ。当時後輩に「先輩、今晩はどちら方面に飲みに行かれるんですか?」などと皮肉たっぷりに尋ねられて、「今晩は銀座の高級クラブ・ブルースカイだよ」「女の子が選り取りみどりだぞ」なんて冗談を言ったものだ。
確かにガード下とはいっても露天に等しく、そこを通行する女性も多数。表現は決して違ってはいない。以来、私は有楽町ガード下を「サラリーマン倶楽部」と名付け足繁く通った。ヤキトリを焼く煙が濛々と立ち込めるサラリーマンのオアシス。情報交換や悩み事相談、意志疎通の場でもあった。
 近隣のハイカラ(ハイセンスで小奇麗)な銀座とは打って変わりここガード下は、我々サラリーマンにとっては最高の癒し場所だった。東京の多くの飲んべえ横丁がそうであるように、戦後の復興から始まり常にその時代を見つめてきた。当初は浮浪者が住み着かないようにと行政がテコ入れした経緯もあったとか、現在の経営者は親子代々の店が多いようだ。昭和四十年代の高度経済成長期のあの鰻上りの賃金上昇も手伝って、いわゆる″企業戦士″の溜まり場として隆盛を極めてきた時代の寵児的存在だった。最近では外国向けのガイドブックに載っているのか、はたまた口コミからか外国人客も目に付く。またこの界隈は来店客にマスコミ各社のインタビューなども時々行われる。実際私もインタビューを受けた経験がある。それを偶然親戚筋が見ていて、元気な姿がそのまま実家の両親に伝えられた。
 こうした時代の浮沈や数々の人間模様を見続けてきたガード下「サラリーマン倶楽部」だが、最近は居酒屋の大型チェーン化などに押し流されて、苦しい経営を余儀なくされている。近年のサラリーマン事情は、仕事上がりに飲んで帰ることが少なくなり、また、以前のようにお金を落としてはくれないという。こうした居酒屋事情の変化も低迷に拍車をかけている。ともあれ、かつての隆盛を極めた飲んべえ横丁を知っている私たち団塊の世代にとっては、これまた寂しい限りである。当時、今の日本は我々が支えているんだと自負していた。だからこそ街角には仕事上がりにチョット一杯やって、明日への活力にするといっては意気高揚していた多くのサラリーマンの姿があった。あの活気ある日本は今やいずこ。頑張れサラリーマン諸子。